『家族論』――家族,その解体と再編に向けてB――家族を開く
人間は宇宙の摂理の中で生きている.神に命を授けられたと考えるのも良いが,とりあえずは父と母の生殖結合抜きでは生命の誕生はない.やがてその子も成長し,パートナーをえて,子を生む.人間は他の動物に比べても,未成熟な生き物として生まれるので,親の保育抜きでは生き延びることが出来ない.しかも人間は社会的存在であり,社会的に成熟しなければ人間社会での共存が許されない.こうした養育期の子どもを育てていく社会的単位を「家族」という.
家族の最小単位を父と母と子で形成する『核家族』と名づける.もちろん子どものいない家族もあれば,父または母を欠いた母子家庭や父子家庭もありうる.また父系または母系の親族と同居したり,数世代の夫婦や子どもが同居する伝統的な大家族もある.しかし,これらの家族も,かつての種族社会のように一族が共同で集落を形成したり,集住したりする形態に比べれば,相対的に『近代家族』といえる.近代家族の中から,分離されて『核家族』が主流となった現在の家族形態は『現代家族』といってよいだろう.(家族の概念については『居住の共同』『血縁の共同』などが伝統的家族の要件であり,この点では『核家族』も伝統的家族にカテゴライズされる.伝統的家族,非伝統的家族については上野千鶴子著『近代家族の成立と終焉』岩波書店に詳しい.)
伝統的『大家族』から『核家族』化への過程には権威主義的家父長制への批判や,家事労働に縛り付けられていた女性の解放など,さまざまな近代化,現代化の課題があり,『核家族』化はその成果といってよいだろう.同時に,『現代化』とは現在の産業構造,社会構造に適した『家族』モデルを作り上げることでもあり,資本制生産に適した労働力の供給モデルに一歩近づけたということでもある.
かつての伝統的家族とは,親族の共住により農業や家族的手工業などの共同労働を支えるのに適していたし,過渡期的には『3ちゃん農業』と言われるように,壮年労働力は出稼ぎや工場労働者として働きつつ,祖父母〔=じいチャン・ばあチャン〕と嫁〔=かあチャン〕は田畑を耕すなどの時代もあった.家族の現代モデルは成人家族の一人一人が労働力として雇用され,賃金労働に就くスタイルである.
高度経済成長の初期,若年者の雇用が飛躍的に増大した.重厚長大産業には壮年男性が,軽工業には若年男女が雇用され,国民所得は一挙に増大した.家庭電化が進み,家事労働が軽減されると主婦層の就業継続も進んだ.第3次産業が拡大し,主婦のパート労働が増え,不況による企業の雇用縮小に対しては,若年者のアルバイトなどフリーター雇用がそれに応えた.家族を大家族から核家族に解体していく過程は,労働力を資本に都合よく提供していく過程に他ならない.
かつての大家族が,辛うじて農地や家作,家内工業などの家業的生産手段を共有していたのに比べて,核家族においては家族成員の労働力しか生活手段を持たず,家計防衛の手段は一人ひとりが勤勉に働き,貯蓄を増やす以外にない.
言うまでもなく金銭こそが家族を守る唯一の武器となった.貨幣至上主義こそが生活の原理となって,より多く金銭を稼げる能力をつけることこそ『教育』の目標となった.こうした貨幣経済の社会では『信用』とは『貨幣的信用』に他ならず,『人間的信用』は次第に軽んじられ,『家族』は『人間的信用』の『核』,最後の『砦』ともなり,やがては『核家族』は信用を閉ざして『自閉する家族』となる.
『核家族』の形成主体たる父と母は,『砦』に自閉して『城内平和』を維持しているのだから良いだろう.これを『マイホーム主義』と言い,高度経済成長時代の『幸福』の形の一つでもあった.雇用が安定している限り,ローンを返済しながら教育投資にいそしみ,子どもの誕生祝のパーティも13歳か14歳くらいまでは平和に続けてこられた.
さて,子どもの社会的な成長はどうなっていっただろう.なにしろ『人間的信用』はマイホームの砦の中に,金庫に鍵を掛けてしまっているので,子どもは『人を信じる』という『通行手形』など持たずに外出している.むしろ『人を信じるな』『嘘をついてはいけない(人に騙されないように)』『他人に迷惑を掛けるな(迷惑を掛けるとひどい目にあうよ)』のように『対人恐怖』と『人間不信』を煽るような教育的言辞が,冷徹で利己的な優等生が必ず鞄にいれて持ち歩いていた親からのメッセージではなかったか.
それで冷徹で利己的な優等生作りが完成し,彼または彼女もまた資本制生産様式の中で一人の勤労者となり,マイホームを継承していけるなら,それはそれでよかったのかもしれない.残念ながら,豊かさは手に入れたものの,資本制市場経済至上主義は行き詰まり,リストラが横行して失業者は増大,受験戦争を勝ち抜いた若者にさえフリーターのような不安定雇用しか用意されていなかった.父親達が生きてきた過去の社会システムに対する信用は地に堕〔お〕ちて,若者達は親や学校の先生達の教えるままに生きていけば幸せをつかめるとの思い込みが,幻想に過ぎなかったことを知る.
これまでの若者なら,ここで親や学校や社会に対する『叛逆』に向う.しかし,親たちは子どもに『政治的関心』と『人間の連帯』というものにだけは興味を向けないように教育してきたし,残念ながらその教育だけは『成功』している.政治的目標を持たず,友との連帯が出来なければ『叛逆』など夢想しようにもない.孤立し,目標を失った若者は『引きこもる』しかないのである.
すべては『核家族』の孤立的自閉の必然的な結末である.夫婦の性愛とその成果としての利己的遺伝子,家庭内に限定した人類愛ではない家族愛の煽〔あお〕りたて,行き先を失った若者達の愛の行方は究極の自己愛として引きこもらざるを得ない.大家族としての祖父母や傍系親族,地域コミュニティにおける優しいおじさん,おばさん,遊び仲間のガキ大将や親友やちびっ子,そんなものの不在を嘆いても,ないものはないのである.
人が生きていき,成長していく上で,ひょっとして不可欠であったかもしれない,そうした人々の存在と,その存在を許していた社会構造が既にないのである.親たちがなお,そのなくしてしまったものを惜しむ気持ちは痛いほど分かる.死んだ子の亡骸をいとおしむように,家族の紐帯を強め,家族に縛り付けようとすればするほど,家族は崩壊していかざるを得ず,愛しめば愛しむほどわが子は孤立の暗い穴に落ち込んでいくのである.
『家族を開く』ことがこの孤立を救う唯一の道である.『核家族』は人間が健全に社会生活を送る単位としては小さすぎる.少なくとも『核家族』は孤立して平和に再生産を続けられる単位ではない.『引きこもり』の増加はそのことの証明である.私には『引きこもり』たちの悲鳴が聞こえる.人間不信と競争,金銭的にしか家族を守ってあげることの出来ないシステムは既に破綻している.破綻した家族は早急に『解体』すべきである.破綻した家族システムにしがみついていては,凍った海に投げ出されてしまう.
(12月8日)