『惑乱』する若者
わがニュースタート事務局関西のホームページ・掲示板では論争が盛んである.『社会病理の解明』などという怖ろしく難しげなタイトルにも100を越える書き込みが相次ぎ,文字通り議論百出である.
『社会病理』の反映であることについては,斉藤環氏などの精神科医も認めており,『引きこもり』が精神障害によるものではないことは,その『定義』においても定められている.しかし,『社会病理』論には根強い抵抗もある.『社会病理』などといわれると,十把一からげにされて粗雑に扱われているような気がするらしい.自分は高度な精神的な『課題』を悩んでいるのであり,社会などとは無縁であるというのが彼らの主張のようである.
ニュースタート事務局関西は設立満5年を迎えるが,一貫して引きこもりの親の悩みを受け止め,当事者の問題解決に取り組んでいる.ところが,ある若者は私へのメールで『社会批判よりまず先に,一人でもひきこもり当事者を救って欲しい』と言って来る.要するに『社会』について論じることは論者の自己満足であり,当事者を救うこととは無縁であるというのである.
当然,論じることが自己満足などになってはいけないし,私たちの活動にとってそのようなものは無用である.『社会批判』はその社会の生み出した矛盾を指摘するとともに,解決の道を探るのが目的である.私たちは@友達をつくり,A家族からの自立を図り,B社会参加を目指す,この3つが引きこもり脱出の目標だと言っている.
こうした3つの目標も任意の思いつきで設定されたものではない.@は競争社会の行き過ぎから,相互の人間不信や対人恐怖が醸成され,友達を作れない人が増えている.Aはそうした人間不信が社会的に蔓延し,家族だけで自閉(核家族)するパターンが広がり,地域コミュニティも崩壊し,若者の社会参加が疎外されている.Bは豊かだが出口のない社会で就職の門戸は閉ざされ,過酷な労働の株式会社に若者は参加していけない.だから私たちのようなNPO法人に参加したり,協同組合に参加して『新しい働き方』を見つけようと言っている.
すると「NPOでも協同組合でも,資本主義社会なのだから競争に勝たなければならない.株式会社と変わらない」と言ってくる.これは,自分自身の選択も社会での評価基準としての『勝ち負け』に委ねていることの表れである.私たちは,社会に参加する=働き方のありようを提示することによってAやBの目標を示そうとするが@の手前で立ち止まっている人ほど,自分の出口を示されるのを嫌うのである.社会的評価基準の歪みの指摘こそが『社会批判』であるのに,『社会批判』そのものは棚上げにして,超越的な自己実現を目指そうとするのである.
引きこもりの若者は,概して聡明で哲学的思考や論理学的思考に優れている.しかし,社会批判以前に,社会理解の手法としての経済学,政治学,歴史学にはほとんど知見がないか,鈍感である.例えば,今の日本がおかれている国際経済的な立場に理解がない.
現在の日本のような,先進国の没落は歴史的にも数多く見られる.大航海時代以後繁栄を誇ったオランダ,スペイン,ポルトガルなどの海洋植民地国家.産業革命の先頭を走り,ついには英国病などの汚名をこうむった国.食肉や小麦などの食糧出国として30年の栄華を綴ったアルゼンチン.いずれも繁栄の中で改革を怠り,次の時代の準備をおろそかにしてきた国である.不均等発展を遂げる後発国に追い上げられ,経済の盟主の地位の交代を迫られる.
いずれにしろ,没落国家の例に拠れば,繁栄の跡に残されるのは高学歴でひ弱な若者の群れである.日本の若者たちの『大失業時代』も歴史的にお膳立てされた教訓である.成金国家では例外なく教育投資が盛んに行われる.自分たちの富の基盤が脆弱なことは誰もが知っている.30年そこそこの繁栄の中で,子孫に残してやれる<<確実>>なものはせめて『学歴』しかない.しかし,往々にして『学歴』は筋肉や技術や生きて行くための逞しさと相反する関係で取得され,学歴のない,より多くの逞しい若者を『知的に管理』する以外に役立たない代物なのである.
繁栄が終わったとき,あるいはその『終わりの始まり』が幕を開けたとき,若者たちは旧時代の親たちが自分たちに残そうとして躍起になっている制度やシステムがいかに無力であり,将来自分たちにどんな災厄をもたらすかに気づき『惑乱』する.それが『引きこもり』である.
『引きこもり』は時代の転換期にしばしば発現する『若者の叛乱』の形を取っていない.『叛乱』にはそれなりの『社会批判』が不可欠である.社会批判なき『抵抗』は『叛乱』ではなく,あくまでも『惑乱』なのである.『叛乱』には社会とその時代に対する『怒り』が原動力になるが,『引きこもり』には社会に対する怒りが見られない.怒りはせいぜい競争から降りてしまった自分自身の不甲斐なさに対する『怒り』や,勝ち目のない競争に追い込んだ家族に対する『怒り』,いずれにしても甘ったれた内向きの『怒り』しかない.
客観的に見れば,明らかに旧世代が繁栄を謳歌し,そのつけが若い世代に押し付けられようとしているのだから,世代に対する叛乱であってよさそうなものだが,決して叛乱にはならない.1960年の高度成長開始から1990年バブル崩壊までの30年間の繁栄のつけという意味では,まさに1ゼネレーション,旧世代が『改革』を怠り,若い世代の雇用も年金も夢も誇りも生き甲斐さえも奪っているのである.
『去勢』というのは心理学的に幼児期の『万能感』を除去され,『社会化』された成人になることをさすが,現在の引きこもりは心理的には『去勢』されず,逆に社会的に『去勢』されているのである.東西冷戦も,かつての左翼学生運動もイデオロギー的な対立により激化した.改革を怠ったのみならず,『対立』すらも拒絶した旧世代は,目の前の『幸福』だけを追い求めて,わが子たちが『社会批判』の視点や,その手法としての『経済』『政治』『社会』『歴史』を学ぶことも阻んできたのである.
『叛乱』の条件には,同じ世代,同じ階層の多くの人々の間での『共感』が必要である.世界的な『叛乱』が起こりうるとすれば,世界的な『共感』が生まれなければならない.ところが今の日本にとっての経済社会環境はとっても国際的な共感を呼ぶようなものではない.勝手に30年にも及ぶ繁栄を貪り,自らが招いたとも言える高賃金や円高が失業をもたらし,若者を苦境に立たせているのである.
それでは国内の同世代で『共感』が組織化されているのか?これも『ノー』である.引きこもりはその発現の時期により,中学・高校・大学とさまざまであり,高校中退・大学中退あるいは大学卒などさまざまな学歴形態を持つ.しかし,その大部分は中流家庭の教育熱心な親に育てられ,勝ち負けにこだわりながら高学歴を目指した履歴を持つ.大学をめざすことがすべてそうであるとはいわないが,『同世代の若者を知的に管理し,支配する』という<<さもしい>>欲望を持った過去を恥じている.あるいは未だその欲望を捨てきれず,欲望を達成できなかった『挫折』を恥じている.この『恥辱』を抱えている限り同じ引きこもりの若者同士でさえ『共感』は生まれないし『連帯』に結びつくことはない.ましてそれが『叛乱』に昇華することなどありえない.
利己的な欲望としての『支配意欲』の挫折は,青白い孤独な『惑乱』のまま沈殿し,富裕な国の斜陽を眺めている.希望のない国ニッポンの泥濘に浮遊している.彼らを,わが身の不幸を嘆くだけで,親たちや前の世代の財産にすがりついて生きていくだけの,ひ弱なあひるにしてはならない.
(10月22日)