社会病理と個体の病理(2)
なぜ『社会病理』にこだわらざるを得ないのだろうか?もちろん,ここ5年程度の間の『社会的引きこもり』の大量発生が,現在の<社会状況>と密接不可分だと考えているからである.
他方で親達や当の若者達自身の中にも『社会病理』という考え方に馴染〔なじ〕みにくい点が多く,素朴に反発される方や,正しい理解から遠ざかろうとする人が多い.
『社会病理』が原因だという理解は『社会がいけない』と,外から『現在の社会を批判している』と捉える.つまり,現在の社会体制への批判=反体制的なものの考え方と捉えるようである.
現在の若者達は子ども時代に既に,東西冷戦が終結し,イデオロギー的な対立など知らないし,ましてや大規模な反戦運動も学生運動も経験していない.<社会体制>を批判すること自体が<アウトロー>的で<いけない>こととして身についているのであろう.
もうひとつ若者達の論調のひとつに『社会批判』=責任転嫁,責任回避だとする意見がある.ここには『個人主義』と『集団主義』に対する奇妙な論理のすり替えがある.『社会批判』=責任転嫁というのは『社会』という『集団』に<属している>ことを前提にして,それをまるで自分が属していないかのように外から批判するのは,責任を取らない無責任な立場であるという,一種の素朴な正義感からの考え方と受け取れる.
ところが,良く聞いていると彼らは社会に属しているのでしなく,社会は彼らの外側にある.外にあるもの,つまり<他者>批判するのは,自分の責任を回避しているとの批判のようである.彼らの『責任』意識とはどんなものかというと,自分の<病気>=病的な状態の解決は,『自分自身の意識の持ちようによって解決すべきだ』としており,極めて『個人主義』的な解決法しか考えていない.つまり,その集団が病んでいるとすれば,その構成員として集団そのものの改善や治療を行うべきだという意識は霧消してしまっている.
彼らの意識の内部では『社会』は与えられた<ゲマイン・シャフト>=共同社会のように構成の義務を負っており,同時に<ゲゼル・シャフト>=利益社会のように個人的な目的達成のための場であり,そこでは個人的パフォーマンスが求められているのである.ある意味で競争社会を生きて行くのに都合の良いように意識が改造されているのである.ある意味で反抗も抵抗もせず,義務には従い,権利を主張せず,自分の困難は自分で解決しようというのだから,体制にとってはきわめて都合の良い存在である.
ところで,彼らにとって『家庭』という共同社会は,無原則に甘えが通用する社会で,そこでは『個』の問題は無原則で無制限な共同性の中に埋没してしまう.ニュースタート事務局というのも一種の利益社会=目的社会であるが,ここでもまるで『家庭』という共同社会同様に甘えが許されると考えている.
ところが『社会』という言葉に直面するや否や,それを批判することに抵抗を示し,『社会』にはひたすら恭順と無抵抗の優等生ぶりを示す.つまり家庭でも,親しい集団内部でもより大きな社会でも通用する『自立した個人』ではなく,小さな集団の中に埋没することによって自衛しているハリネズミのような存在であり,本当の意味での『社会』に放り出されることをひたすら恐怖しているのである.
ところで,集団的な病理と個人的な病理の問題に立ち返る.引きこもりの発生はあくまでも個別的である.インフルエンザの流行のように,いっせいに引きこもりになり,学級閉鎖や学校閉鎖が行われるような感染症ではない.他方,『社会的引きこもり』が名称として問題になったのはせいぜい5年程度前からである.今のところ,日本以外の外国ではこのような流行現象は見られない.
30年前くらいから,学生や若者の無気力症というのは報告されていたが,現在私たちが理解している『引きこもり』とは違う点が多い.『離人症』のようなものは昔からあり,平安・鎌倉時代の文学からもそのような傾向の世捨て人が居たことは読み取れる.しかし,これとも明確に違う.
それでは何故,現代の日本に『引きこもり』現象が大流行しているのか?一人の引きこもりのわが子に向き合う親には見えないかもしれないが,何百例もの引きこもりに対面してきた私たちには共通の背景が見えてくる.ほとんど例外がないと言ってよい.荒っぽくいえばこうだ.@出口のない競争社会.A豊かなニッポン.B不況による社会閉塞〔へいそく〕状況.
AとBは矛盾するようだが,これが同時に現在の日本を覆っている.不況だけならこれまでの日本は何度も不況に襲われている.しかし,戦後の貧困のさなかには引きこもりなどなかった.また@の競争社会も,今に始まったことではない.Bの閉塞状況が『出口』がないのに若者に競争を強いている.この3つの組み合わせが並存している現代社会が『引きこもり』を生み出している.その中から『人間不信』や『対人恐怖』が激増している.若者にとって,一番安心していられるのが『家』の中で,社会参加せずに『家族に依存』する生活が続く.
このように集団的な社会病理である『引きこもり』だが,現代社会ではこれをきわめて個人的な病理とする見方が強く,その代表的なものが臨床心理士などのいわゆるカウンセラーに頼る方法である.カウンセラーは引きこもりの原因を心の傷と考える.PTSD=Post Trauma Stress Disorder=心的外傷後ストレス障害という精神医学上の捉え方と同じである.
PTSDは例えば阪神淡路大震災など大災害で親を亡くした子の心の傷など,社会的に共通する事件や事故などもあるが,あくまでも心の傷という捉え方は個人的なものである.引きこもりの原因とされる代表的なものはいじめであるが,他にも千差万別であるとされる.いじめの他には失恋とか,両親の不和,身内の人の不幸な死,受験の失敗,信じていた人からの裏切り,両親や先生からの強い叱責などが代表的なものだろう.
これらは確かに引きこもりのきっかけになる.そして,人それぞれであり,個人的な体験である.カウンセラーはこの切っ掛けになったトラウマを探し出そうとする.もちろん本人が個人的な心の傷を打ち明けるには,カウンセラーとの個人的な信頼関係の構築が先決となる.
ここでカウンセラー達の重要な錯覚が始まる.このさまざまなトラウマというのは実は,個人的なものであり,一人一人の人にとっては重要で克服しがたい体験のように見えるが,社会的には(つまり巨視的に見れば)誰にでもある些細〔ささい〕な体験である.例えば親の死が耐え難い体験であることは事実であるが,治療を必要とするような障害ではない.しかも,引きこもりにとっては現存するストレスが引きこもりからの脱出を阻〔はば〕んでいるのであって,たとえ心の傷であっても,だれもが持っている古傷を撫〔な〕でてみるのなど,見当はずれもはなはだしい.
社会というのは自立した個の集合体である.自立の意識や自覚がない人は,社会を自らの内なるものとして見ることが出来ず,そこから遊離して浮遊している不確かな自分を感じている.カウンセラーもまたそうした個としての人間を見る.社会が病んでいれば,その構成員たる個にもその病理が及ぶ.個人を個として抽出して癒〔いや〕そうとするのは構わないが,集団的な病理に気付かず手探りで古傷を撫でるだけでは,最も病理の根源にある社会から遊離した個を,社会に取り戻すことが出来ない.
(5月28日)