自我と他者
最近ホームページの掲示板に『自分で自分が何であるか決めた頃』という文章を十数回にわたり連載させていただいた.『自叙伝』のつもりではなかった.私自身,中学・高校の頃からの文芸趣味もあり『私小説』を書く誘惑は十分にあったのだが,何しろホームページの掲示板であり,そのようなものを書くにふさわしい場所ではなかった.それでも,ある意味で私の『半生記』のようなものになった.『反省記』でもあったかもしれない.ところどころに言い訳も書いた.できごとの詳細を面白おかしく書くのは出来るだけ慎んだつもりだった.
『自分で自分が何であるかを決めた頃』というタイトルは,最初に仮に付けた.結局そのタイトルは変更できなかったが,書き進んでいるうちに大きな間違いに気がついた.このタイトルではある意味で『自分の人生を,自分自身の意志で決めた』と主張していることになる.
書いているうちに気付いたのだが,現実には周囲の人の『言葉』や態度,自分自身がめぐり会って行く『環境』の変化によって『自分の生き方』を選択するように仕向けられた,と考えるのが正確なのではないか.だからと言って,環境や社会の流れに身を任せて『没我的』に生きてきたというのではない.
実は人間というものは『自分』というものを正しく認識するのが大変苦手である.写真を見たり,鏡を見ることによって姿・形の輪郭を知ることはできる.しかし,自分の能力や職業適性,人からどのように見られているのか,つまりは,己の社会的評価などはほとんど自分自身ではわからないに等しい.自惚〔うむぼ〕れの強い人,謙虚な人などの違いによっても他人からの評価と自己評価に大きな違いがあるだろう.自分のこともわからないのだから,他人を評価することも難しいのは当然である.
そこで,便宜〔べんぎ〕的尺度で人を評価してみようとする.学校の成績や,学歴,その人の持っている資格などであるが,これは使ってみると非常に便利である.偉い人,賢い人,有能な人などが実に簡単に分類できてしまう.『便宜的』などと言ったが,何時〔いつ〕の間にか,それが絶対的な尺度になっていたりする.他人が他人を評価するだけでなく,自分自身までそうした尺度で自分の『価値』を測ったり,決めたりする.私は○○大学の卒業だから偉いんだ.○○大学に不合格だったからダメ人間だなどと.
評価基準を機械的に適用して他人を評価するのなど,私は嫌いであるが,自分自身のものさしで自己評価をするほど傲慢〔ごうまん〕でも自信家でもない.連載した『自分で…』の中でも書いたのだが,私は,中学時代の友人から『卑怯者だ』と言われた言葉に,長く囚〔とら〕われることになった.
他人である友人の言葉を引きずり,ついにその言葉から抜け出そうとして,私はある種の決断をした.つまり『自分が何であるかを決めた』のは自分単独の自由意志ではなく,他人から投げかけられた言葉によってであった.もちろん『卑怯者』と言われた言葉だけが私の自己決定に影響を与えたのではなく,無数にある要因の中のひとつであったのに過ぎない.
今更三十年前の選択の是非を蒸し返すつもりはない.ただ,自分に対する他人の評価をどう受け止めるべきかを考えたいだけである.
他人からの自分への評価には,好意的なものもあれば,悪意や敵意に満ちたものもある.私は,いずれにしてもこうした他人からの評価をある意味で貴重な意見として受け入れてきた.好意的であれ,悪意であれ,他人が自分について批評してくれるのは,極めて有難いものである.悪意に満ちた批評はもちろん素直には受け容れがたいが,そんな時は「ははあ!悪意で見ると,私はこんな風に見えるのか」と納得するようにしている.同じように『賢い人はこんな風に見えるのだ』『優しい人は…』『非情な人は…』『保守的な人は…』『いまどきの若い人から見れば…』と,相手の視点を考えれば,自分についてのいろんな見方を受け容れることができる.
こうして自分に対する多様な見方をストックしていくと,まるで立体写真で合成した自画像のように自分を『客観』できるようになる.もちろんこうして出来あがった自画像が『正しい』自分であるかどうかは別であって,自分自身の在りようを決定するのは当然自分である.また『悪意』とか『好意』とかの位相は自分の側の主観であるから,そのように再構成された自画像は,まさに『自画』像であり,相手は,ある意味で仮象〔かしょう〕としての視点を提供してくれているのである.いずれにしても主観的な受け止め方と相手の視点が加わるのだから立体性が増して来ることになる.
誰しも聖人君子ではないのだから,誉められれば嬉しいし,けなされれば悔しい.あるいは腹立たしい.しかし,誉めてくれる人にだけ心を開き,腹立たしいからと言って,けなされた人と距離を置いたり,袂〔たもと〕を分かったりするのは愚の骨頂である.そんなことをしていては,貴重な批評をしてくれる人をなくすことになり,鏡をなくしてしまうのと同じである.
引きこもりの人にも多い神経症の一種に<視線恐怖>がある.他人の視線を批判的な批評と感じ,特に大勢の人の集まる場所や電車の中などでパニック状態に陥る.これなども,他人との距離感のバランスを保てず,他者の批評の中に自我が埋没してしまい,自己喪失してしまいそうになるのである.
ホームページの掲示板やメールで相談を持ちかける人の中にもこんな人はいる.自分の悩みを打ち明け,アドバイスを欲しがっているのだが,実は厳しい指摘や助言を求めているのではなく,慰めや共感だけを求めている人が多い.少し批評的な視点で助言してあげると,猛烈に反撃してくるのである.『あなたは第三者から見るとこんな風に見えますよ』と鏡を向けてあげるわけだが,その鏡が悪意の鏡で,歪〔ゆが〕んだ自分しか映っていないと抗議してくる.
私は『慰め』や『癒し』の効用を否定する訳ではないが『慰め』や『癒し』だけでは本当の苦しみからの脱却はできないと考えている.特に引きこもりの人は,自分の中に隠れている人間不信や独〔ひと〕り善〔よ〕がり,他人に対する敵対心などを払拭〔ふっしょく〕しなければならず,そのことを客観的に見つめる力をつけなければ『一歩』を踏み出せないと考えている.
掲示板に書き込んだり,メールを送ってくれる未知の若者に『悪意』などあるはずがないのだが,たとえそれが悪意であろうと歪んだ鏡であろうと,他人の言葉を受け容れるゆとりがなければ,引きこもり脱出の第一歩はまだ遠いことになる.
(10月22日)