家出の話
『家出する』『故郷を出る』.出る,入る(帰る)だけなら単なる空間の移動を意味するだけだが,現実にはどちらにもある程度の決意が必要である.単に物理的な空間や地域を離れるという意味に留まらない.ある意味で『家を捨てる』『故郷を捨てる』という意味合いを含む.
他にこのような『捨てる』という意味合いを含みながら,『離れる』場所ないしは帰属先としてどんなものがあるのだろうか?『会社』や『学校』もそれに近いのかも知れない.退学や退社には『捨てる』というほど決意の込められたものもあれば,単に転学や転職のような自己都合的なものもあるかも知れない.『国を捨てる』というのは江戸時代以前の藩閥〔はんばつ〕時代にはあり得ただろう.また大東亜共栄圏の夢を見て日本を捨て大陸浪人の道を選んだ人もいたらしい.今はグローバル時代であり,海外に渡航するのも簡単過ぎて,帰ってくるのも簡単.なかなか国を捨てるというような悲壮感は持てそうにない.
以前『不登校と引きこもりを考える会』の例会で出席者にこんなことを聞いたことがある―
『家出をしたことがある人は?』『家人から,または,家人に対して(家を)「出ていけ」と言われたことのある人,または,言ったことのある人は?』
そのときの参加者数は約60名.若者と親の比率はおよそ半々であった.答えはいずれもゼロであった.私の質問の意図を図りかねて答えそびれた人もいたのかも知れない.
私自身は『家出体験者』であり,親から『出ていけ』と言われたことは数知れず,娘たちにも『出ていけ』と怒鳴りつけたことがあるので,このゼロという結果は意外だった.私にとって『家出』というものは青春の<通過儀礼>程度に考えていたのだ.もちろん,私が一般的な基準になるわけがなく,少なくとも現在の『家庭人』にとって『家出』などしたことも,考えたこともないのが『スタンダード(普通)』であることは,言うまでもない.ただ,若者は別として親世代の中には私と同世代や年長の人もおられ、やはり家出体験ゼロというのは意外であった.
私の青春時代の『家出』というのは<貧困>や<家の狭さ>と関係があるようだ.その当時の親には家計の苦しさの中で,必死で子育てをしているという意識があり,言うことを聞かない子どもに対して,養育責任を放棄する=出て行けという言葉につながりがちだったのではないか?家の狭さに関してはもっと直接的である.6畳ひと間に親子何人かで暮らしていて,親子喧嘩や夫婦喧嘩でもすれば『出ていけ』と怒鳴り,ぷいと飛び出すのは当たり前.尤〔もっと〕も,こんな家出はたいてい数時間か,せいぜい一晩限りの家出で,私の家出もたった一回を除いてはこのたぐいであった.今の家屋事情なら,オヤジから怒鳴りつけられても,あるいは怒鳴られそうになっただけで自室に閉じこもってしまえば,家出などする必要もなく,ひょっとすると引きこもりの1パターンである『自室閉じこもり』は現代版の『簡易家出』なのかも知れない.
ところで,会社を捨てる『退職・転職』も,学校を捨てる『不登校・中途退学』も昔に比べて激増している.会社の発展性が見えない,出世・栄転の見とおしがない,あるいは会社内の人間関係が上手〔うま〕く行かない.こんな理由で実に簡単に会社を捨てる.学校も同様である.親に押し付けられたか,そんな学校にしか入れなかったのかも知れないが,結局自分で選んで入った学校なのだが,面白くなくなって辞めてしまう.つまり学校や会社は非常に捨てやすいものになっている.
一方で家を捨てる『家出』が少なくなっているらしいのはなぜだろう?家とか家庭というものが昔に比べて重要性が増し,捨てがたいものになったのだろうか?素直にはどうも信じがたい仮説である.
私の家出の一回だけの例外,これは一応『決意』をして『家を捨てよう』とした.高校2年の時である.友人と別れの挨拶をして夜汽車に乗り,東京を目指した.『受験勉強』に夢を托〔たく〕せなかったし,自治活動をめぐって学校長と対立し,味方のはずの教師からも裏切られた.『家を捨てる』のは自分のそのときの『恵まれた高校生』としての境遇を捨てることを意味していた.特に家族と不仲であったわけではない.
結果はどうなったのか?私を『送別』したはずの友人が裏切り,私の家出は数時間後にある教師から私の親に通報され,私の乗った列車が東京駅に滑り込んだときには丸の内警察署の警官が家出手配を受け,背の高い高校生を探していた.
結局このときの家出も一晩だけで終わってしまったのだ.『家を捨てよう』としたのは事実だ.しかし,家族との永訣〔えいけつ〕を誓ったわけではない.自分の置かれた生温い境遇に我慢がならずに,そこから旅立とうとしたのが真相ではないか?つまり,家出は一つの旅立ちであり,『出発』にしか過ぎなかった.家出が『出発』なら,家は『出発点』であったのに違いない.
現代の若者は(いや,その親たちも)家族や家というものをどう考えているのだろうか?学校という共同体に絶望し,職場という共同体にも夢を托せない.地域社会などというものはないに等しい.友人を拒絶し,社会的に孤立してしまっている.家族,家庭だけが最後に逃げ帰る場になっている.しかし,その家さえも濃密な信頼関係や絆〔きずな〕に守られているわけではない.辛〔かろ〕うじて保証されているのはそこに住むこと,食べること.そして一人で閉じこもることのできる個室.血のつながりという,危ういが信じるしかないような一つの事実.家とは,社会から疎外された個人が逃げ帰る最後の拠点になっている?
ん?家は『出発点』ではなかったのか?いつのまにか出発点は,最後に帰る拠点としてすり替えられているではないか?最後の拠点であるとするなら,確かにイージーに『家出』をすることなどできないだろう.ひょっとすると『家出』ができないという状況こそ,今日の『引きこもり』の増加の背景ではないのか?
『出発点』から『最後の拠点』への変化,家というものの持つ意味の変化にこそ引きこもり増加の秘密が隠されているのではないか?
親たちの世代にとって確かに『家』は一つの目標であり,到達点であった.少数の恵まれた人は更にその親(祖父母)から継承した財産によってなんなく『家』を手に入れたかも知れない.しかし,多くの人たちは結婚し,アパート住まいから始めて,賃貸マンションを借り,やがて住宅ローンを利用して『ついの棲〔す〕み家』を手に入れたという人が多い.そこで核家族としての子育て期の大半を過ごし,子どもは成人を迎えた.
親自身は,やむを得ずなのか,自ら選び取ってかはしらないが,祖父母と離れて『核家族』を形成しているのだが,自分たちにとってはその『家』は『ついの棲み家』であり,到達点である.まさか我が子にとっては『家出』をするための『出発点』だなどとは考えていない.だから間違っても『出ていけ!』とは怒鳴らないらしいし,それどころか,我が子の『旅立ち』をなんとか阻〔はば〕みたい気持ちがあるらしい.
自分たちは『核家族』を選び取っておきながら,その『核家族』の住まいを二世代住宅,三世代住宅に改造して,成人した子や孫たちと一緒に暮らしたいというのが親たちの本音であろう.そんな親たちの身勝手な考えと,社会が若者に出番を与えようとしない今の社会システムの中で,若者たちは戸惑い,引きこもる.
(8月19日)