きれいごと
『熟女バトル』がなぜ面白いのか,ある週刊誌が分析していた.『熟女』とはあのサッチー,ミッチーやデヴィ夫人,それに田中真紀子氏らのことである.ひところ『オバタリアン』という言葉や漫画が流行〔はや〕ったが,余りにもその年代の女性の姿を辛辣〔しんらつ〕に,かつ見事に捉えすぎていて,ユーモアの域を越えていたのか,消えてしまった.要するに『熟女』や『オバタリアン』は自分の欲望や本音を正直に出しすぎる人たちである.主観的であろうと何であろうと,他人の思惑〔おもわく〕など関係なしに,本音をぶつける.意見が合わなければ,口汚く罵〔ののし〕る,嘘でも何でも相手の悪口を言う,果ては告発合戦も辞さない.
しかし,考えてみればサッチーという人は『ブスで下品で口が悪い守銭奴』というだけで,あれほど世間の集中砲火を上げなければならないほどの悪人とも思えない.まあ,脱税で有罪になったのは仕方がないし,タイミング悪かったのは,亭主が監督をしていた人気球団が4年連続最下位で,世間の腹いせの対象にされてしまったようである.
今の若い人から見れば,母親の母親,つまり『オバアタリアン』の世代の女性はみんなこんな風だった.下町の長屋にはこんな『ブスで下品で口が悪い守銭奴』は山ほどいたし,たいていタイミングというか運が悪く,男運も良くないから,亭主は『ぐうたらで能無しで酒飲み』と相場は決まっていた.それでも子育てには必死で,逞〔たくま〕しく本音で生きていた.そういえば,ハイソサエティ出身でもなく国会議員でもなかったが,デヴィ夫人だの真紀子だのに似たのもいたような気がする.いつの時代からか,こんな『熟女・猛女』が世間から姿を消して行ったので,動物園ならぬTVマスコミではこうした生き残りの珍種を見世物にしているのだろう.
私は珍種・珍獣の肩を持つわけではないが,なぜか彼女等の生き様を見ていると『懐かしい』感情が湧いて来て仕方がない.それに比べると,今時のお母さん方や,まして今時の若者を見ているとまるでお座敷で飼われているペット犬を見ているようで,本音の野生などどこかに置き忘れてきたかのような気がしてならない.要するに時間通りにペットフードを与えられて,片足を上げて電信柱に小便をするような下品なことはせずに,ペット用のトイレで用を足し,ひょっとすると事後はウォシュレットなどできれいに洗浄してもらっているのじゃないかと思える.あっ,どっちの話だったっけ,犬か人間か?
『衣食足って礼節を知る』という言葉がある.もちろん個人としての例外はあるが,こうした≪定理≫は世間の風潮というようなマクロ視点でみれば,概〔おおむ〕ね適切なようである.昭和40年(1965年)代にもなると日本の高度経済成長も本格軌道に乗りだし,私が住んでいた大阪のスラムでさえ,少なくとも赤貧〔せきひん〕洗うが如〔ごと〕しというような,絵に描いたような貧乏暮らしは少なくなり,住民同士の喧嘩〔けんか〕さえ本音剥〔む〕き出しのバトルトークは少なくなった.それ以前から知っていた『ブスで下品で口が悪い守銭奴』のオバタリアンも,何十年ぶりかで先日見かけたら上品で裕福そうな老婦人になっていた.
殊更〔ことさら〕にわが周辺に多い引きこもりの若者に限ることはない.今時の若者はこの老婦人たちの孫の世代であるから,既に獲得形質化してしまったのか,大変お上品で,本音で喧嘩をすることなどせず,たいていのことは『きれいごと』で済ませてしまう.要するに諍〔いさか〕いや争いごとを好まず,少々の不満は心の内に潜ませてしまう.だから,不満は鬱屈しそれが引きこもりや,『キレル』現象にもつながる.『衣食足って礼節を知る』ようになったのは良いことなのだが,それが『他人に迷惑は掛けるな』の過剰な合唱になり,知人との距離を置いて,矢鱈〔やたら〕に礼儀が良い代わりに『公衆』としてのモラルは低下し,知らぬ人たちの間ではなにをやっても平気という素振りである.
もちろん本質的に『きれい』と『きれいごと』は違うに決まっている.『きれいごと』というのは実は『きれいでない(汚い)』ものを,表面から見えないように取り去ってしまった状態のことを指している.それはなくなってしまったのではなく,裏側に積み上げてあるのだから,裏側ではその汚いものが嫌でも目に付き,ストレスが溜まるのである.だからキレル.引きこもる.
確かに『衣食』は足りるようになった.昭和40年代に比べても人々は物質的に豊かになった.それで経済的,金銭的な欲望は穏〔おだ〕やかなものになったのか?先を争って幸福の分捕り合戦をするような競争の時代は幕を閉じたのか?お金をめぐる裏切りや騙〔だま〕しや,詐欺商法などは姿を消したのか?企業は社会に貢献しているか?政治は人々の信頼を取り戻したか?残念ながらいずれもnon!否である.
ただ,市井〔しせい〕の人々だけが荒々しい本音を遠ざけて,『きれいごと』に走っている.これだけ人間不信,社会不信の材料だらけなのだから,むしろ池田小学校事件の宅間某のような『多くの人を道連れに殺してしまおう』という輩〔やから〕が続々と出てきてもおかしくない.気に入らない政治家や芸能人など『やってしまえ』と言うようなテロリストが出現してもおかしくない.
別に大量殺人やテロルを推奨しているのではない.怒りや本音をぶっつける野生のようなものを人間は失ってしまったらしい.不満や不平があっても,それを他人にぶっけるのではなく,家庭内や自分自身の内にしまい込んで,外には出さない.完全に私事化させてしまうのである.
引きこもりは『希望のない国』(『希望の国のエキソダス』村上龍)で競争に駆りたて,人間不信や社会不信を増幅させる≪社会病理≫が原因であると私は主張する.だから,堂々と社会システムの側の非を挙げるべきだ.引きこもりは『私事』ではない.≪社会病理≫を非難するのを『反社会的』だと考えるのは,まさに『きれいごと』なのである.
しかし,社会的要因だけがすべてであると言っているわけではない.本人にも親にも,そうした社会システムの不適合にnonを言わずに,競争での敗北や競争離脱に自己不信を募〔つの〕らせたり,能力不足のせいだと考えてしまうような≪敗北の思想≫がある.
引きこもりが親の責任だとは言わないが,引きこもったわが子を『家庭内不祥事』のように世間の眼から隠してしまうのには大反対である.世間の眼から隠しても,裏側には『きれいごと』ではない実体が積み上げられているのだから,本人にも親にもどんどんストレスは溜まる.笑い話では済まされないが,ミッチー,サッチー,真紀子やデヴィだのの熟女,猛女の家庭にはきっと『引きこもり』など発生しない.『引きこもり』は世間の荒波を家庭内に逃避してすごすことでもある.あんなお母さんたちなら,外に出たほうが,多分気が休まるだろうから.
(8月6日)