対人恐怖と人間不信
引きこもりからの≪回復期≫にあって困難な障壁〔しょうへき〕のひとつが「人間不信」である.
引きこもる構図としては「上昇志向」→心理的敗北→「人間不信」→友人接触忌避〔きひ〕→ 「対人恐怖」→家族への依存→「引きこもり」となる.友達づきあいができている間は「引きこもり」とは言えない.また家族がいなければ「引きこもり」は成立しない.ただし,その依存している対象である家族に対して,激しく反発するケースでは,それを引きこもりからの脱出期と見るか,引きこもりをこじらせた段階と見るか,見方は分かれる.依存からの脱出である場合と,家族に対しても不信感を持ち,更に孤立を深めている場合がある.
「対人恐怖」は「人間不信」が昂〔こう〕じた段階と見て良い.社会学的に見ても,敵であるか見方であるか判別がつかないのが『不信』の根源であり,そうした信頼できない人に囲まれていると「対人恐怖」症に陥る.親や周囲の人から見ればこの両者はほとんど区別がつかない.
一般的に考えれば「対人恐怖」は「人間不信」という「障害」の昂じた段階だとすれば,「対人恐怖」の方がより重度な「障害」だといえる.実際「対人恐怖」が取れなければ,外出もできないし,対人接触が出来ないのだから「人間不信」から回復のしようもなく「対人恐怖」を取り去ることが先決であるといえる.
しかし,私などから見れば「対人恐怖」を取り去るのはそれほど困難なことではないが,その先で人間に対する信頼感を取り戻すのは余程難しいと感じるのである.
ほとんどの事例では「対人恐怖」からの脱出→「人間不信」からの脱出となるのだが,稀〔まれ〕にこれが逆転していて「対人不信」から脱出しているのだが「対人恐怖」から脱出しきれていないケースもある.これは引きこもりの期間が比較的長期(例えば5年以上)のケースに見られ,自分の理性では既に「人間不信」が≪誤った社会認識≫であると分かっていて,NSP〔=ニュースタートパートナー〕等の誘いを待ち受けるように「鍋の会」などに出てくるようになる.
ところが現実には,長年引きこもっていて対人接触がほとんどないものだから「対人恐怖」はなかなか取り去れない.要するに「人間慣れ」していないのである.こう言う人が鍋の会で必死に他人に溶けこもうと努力している様を見ると,気の毒に思うが,まあ時間の問題であり,逆戻りしてしまうようなことはまずない.
一般的に多いのは「対人恐怖」からは脱出できたが「人間不信」からの解放には至らないケースである.考えてみれば分かるだろうが,「対人恐怖」とは神経症の一種の状態であるが,人間不信というのは引きこもりに限らず,普通の人にも良くある「人間観」のようなものであり,もちろんそれ自体「病的」なものであるとは言いきれない.
実は人間不信が蔓延〔まんえん〕している社会が「病的」なのであって,その社会の構成員にとってはそうした「人間観」を持つのはむしろ「自己防衛」のための止むを得ない手段でもあるのだ.例えば誰かが何らかの事故で未知の土地に踏み込んだとすれば,そこで遭遇する人間との間に信頼関係はない.突然襲ってくるかも知れないし,相手も自分のことを侵略者として警戒するかも知れない.
現代の都市社会でもそれに似た状況は往々にしてあり,突然街角で話しかけてくるような相手は,何かを売りつけようとしたり,因縁をつけて金品を脅し取ろうとしたり,用心するに越したことはない.見知らぬ人から届くDMや,携帯電話やメールだって同じようなものである.うっかりそんなものをいちいち信用していた日には,どんな詐欺に引っかかるか分かったものではない.要するに初対面の人を誰でも信用するなんてことが土台,無理なのであり,「人間不信」こそが,まともな「人間観」だといっても極論ではないのである.
しかし,これは実に寂しい人間観である.さびしーい!どうすれば良いのか?初対面の人を信用できないのは仕方がないとして,二度三度と会えば少なくともその人が自分に危害を加える類〔たぐい〕の人かどうかが見えてくるのではないか?そこに芽生えてくるのが人間信頼であり,あるいは友情の芽であるはずである.
ここに引きこもりはもう一つの困難に遭遇する.引きこもりとは友達づきあいができない状態の人を指す.元々友達がいた人でも,引きこもりになると友人を拒絶し孤立を選んでしまっている.鍋の会や若者の会や女性の集いに参加して,二度,三度と顔を合わせ,最低限の信頼関係は芽生えているのだが,それを友情だと認識することを拒絶するのである.
私にとっての現在の困惑は,この状態,つまりは「対人恐怖」は取れているのだが,人間関係における信頼を回復できない人たちの多さである.
中にはこんな例が多い.引きこもりの過程でさまざまな神経症の症状が出る.対人恐怖がその典型である.精神科医の門を叩く.当然のごとく精神科医はさまざまな精神安定剤を服用させる.元々完全な引きこもりであれば外出も出来ず,精神科医を訪れることも出来ない.精神科医の所へ行き,精神安定剤の処方を受けるのは比較的軽い引きこもりであり,たいていは親の説得で精神科医に連れて行かれている.
私は必ずしも精神安定剤の効用を否定していない.ある種の安定剤を服用すると「対人恐怖」が一時的に薄れ,外出が可能になる.結構なことである.ただ言っておかなければならないのは精神安定剤で「対人恐怖」を一時的に克服できても,薬では決して「人間不信」を克服できるわけではない.「人間不信」は,同義反復のようなものだが,人間を信用して見て初めて克服できるのである.
「対人恐怖」の克服は人間に対する慣れのようなものだから,薬の力を借りなくても恐怖感は段々薄れて行く.やがて鍋の会や若者の会などに,何事もなく参加できるようになる.「対人恐怖」は完全に克服されている.しかし,この段階で次の人間信頼のプロセスに進める人と,そうでない人の間に決定的な「溝」が生じる.
先にも言ったように,「人間不信」というのは引きこもりに限らず,普通の人にもざらにある「人間観」なのであるから「対人恐怖」を克服した段階で引きこもりは既に「普通の人」と変わらない日常生活が送れるようになっている.少なくとも外見的には普通の人である.
しかし,人間不信を克服していない『元・引きこもり』は私には一目で見分けがついてしまう.『元・引きこもり』で人間不信を克服していない人は,周囲にいる人や仲間を『友達』として認識していない.彼らは依然として,敵対的な人間,つまり競争相手としてしか周囲の人間を見ていず,本当の友人として受け容れようとはしない.これは,引きこもりの出発点としての『上昇志向』が克服できていないからであり,上昇志向こそが敵対的人間不信感の原点である.(ここでは詳しい説明を省くが『上昇志向』と『向上心』を私は区別して使っている.「直言曲言」バックナンバーの『上昇志向』参照)
「対人恐怖」を克服した『元・引きこもり』の中には,自身の人間不信すら克服していないのに『他の引きこもりを救ってあげる』ことや『カウンセラーを目指す』と言う人もいる.
つまり他の引きこもりよりも『上に立つ』ことを目指しているのである.
(7月30日)