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NPO法人ニュースタート事務局関西

直言曲言(代表コラム)

笑いとメディア

 最近ある若者からこんなメールを受け取った.
  『西嶋さんは「言葉」にずいぶんこだわる人のようですね〜』.
  もちろんこれだけでは何のことだか分からないだろう.別のある若者と私の間で『論争』のようなものがあり,それを幾人かの若者にも≪公開≫していたので,それに対する感想でもあり,『言葉にこだわる』私に対する多少の皮肉や批判を含んだメールだったのだろう.
  おそらく彼だけに限らず『言葉』にこだわるということが,何か物事の<本質>を軽視し,表面的な言語の行き違いにこだわっている皮相な古い世代の習慣のように思えるのだろう.もちろん,このメールの発信者はここに言葉で表現したほどの辛らつな批判をしているわけではなく,『こだわる人のようですね〜』と,さらりと流しているだけである.

 何時ものように多少飛躍してしまうのを覚悟の上で,『言語』をめぐる私たちと若い世代の対応の違いを考えてみよう.まず最初に指摘せざるを得ないのが,若い世代の『言語の多義性』に対する無頓着であり,それは主として情報メディアの変容と言語トレーニングに不足によってもたらされている.

 笑い話の類〔たぐい〕であるが,電報の文面に対する誤解の話である.だいたい『電報』などというものが今の若者に通じるのか?慶弔〔けいちょう〕電報は知っているだろう.豪華な刺繍〔ししゅう〕入り電報が結婚式や葬式などに届く.要するにあれは,お祝いやお悔やみの気持ちを刺繍入りのメッセージにして届ける花屋さんの類の商売と理解されているだろう.今では遠方の知人へのメッセージはメールや携帯電話で届けられるのだから,電報などというもののかつての切実な存在価値など理解できない.

 『カネオクレタノム』.電報は通常こんな簡単な文面だった.文字数によって料金が変化するから文面を短くするのは当然だ.一字分増えてしまうが,どこかに段落 」 や空白を入れれば誤解はなくなるのだが,節約してしまうとさまざまな誤解を呼ぶ.
  先ほどの文面の場合こんな読み方が出来る.@金送れ,頼むA金遅れた飲むB金をくれた,飲む,などである.もちろんまだまだある.Aの飲むというのは,何かの支払いのため金を送ってくれるように頼んだのだが送金が遅れてしまったので酒を飲むために使ったと受け取るのが一般的だが,送金が遅れ取り返しのつかないことになったので毒を服む,と理解する場合もある.

 だいたいこんな事例を引き合いに出すこと自体が,若い世代にはわざとらしくて理解できないだろう.この理解の落差はどこからくるのか?
  大げさに言えば活字世代と音声・映像世代の落差なのである.もちろん団塊〔だんかい〕の世代やそれ以前の世代の子ども時代にも,音声メディアとしてのラジオやレコード,映像メディアとしての映画はあった.また団塊の世代の子ども時代にもTV 放映は始まっていた.しかし,彼らの時代にはそれはあくまでも娯楽の対象であり,日常的な生活に入りこんでいるメディアとは言えなかった.だから,彼らはものごとを学ぶ道具としての言語を身につけようとすると,活字つまり印刷物を読むのが主な学習方法だった.
  しかし,時代は次第に進んでTV全盛時代になり,朝から晩までバラエティ番組やワイドショーのような番組を放映している時代になった.活字と映像の善悪を論じる以前に,若者の活字離れが確実に進行した.

 活字〈書籍〉を読んで文字や言語や思考を学ぶのと,TVを見ながらそれらを学ぶのとどちらが正しいのかなどを論じるのではない.もし小学生の子どもが学校での学習時間と同じくらい毎週TVを見ていれば,学校よりも多くのことを学べるだろう.しかも,学校での学習のように苦痛や忍耐を必要としない.本を読んで言語を学ぼうとすれば,何度も辞書を引く必要がでて来るだろうが,TVを見ながら難解な単語が登場したからといって辞書を引く人などいない.またそんな暇もない.誰かがTVで難解な四文字熟語を叫んだからと言って,辞書でその意味を確かめる人はまずいないだろう.もし,そのタレントが意図的であろうとなかろうとその熟語の意味を誤用としたとしたら,多くの人がそれ以降その熟語の意味を間違えて覚えてしまうかも知れない.読書をするには多少の努力や忍耐が必要であるが,TVは多くをあげて笑っていれば済むのである.

 TVの視聴習慣で今の若者を批判しているのではない.私自身TVはよく見るし,多くの大人もまた活字離れをしており,新聞を読まずにTVから世の中の出来事のニュースを仕入れる人が多い.
  要するに大人も子どもも,教養のある人もない人も,言語活用のできる人もできない人もTVを毎日のように見ており,その限りにおいてある意味で文化を共有しており,昔のように本を良く読んで言語や知識を豊富に持っている人とそうでない人の違いなどありはしないのである.
  昨日のバラエティ番組でSMAPの誰某〔だれそれ〕が言ったことや,今朝のNHKドラマのヒロインの運命について知らなければ常識に外れた人間として敬遠されるし,ヒットしているCDのチャート順位の話題についていけなければ変人扱いされるかも知れない.しかし,世界の政治について関心がなかろうと,名作と言われる文学作品などの題名や作者の名前など知らなくても決して常識がないなどと非難されない時代である.

 TVだって見方によれば,こうした知識を簡便に教えてくれる道具である.しかし,活字を読まない習慣の人たちは,TVでも概〔おおむ〕ねニュース番組や教養番組を見るのが苦手で,バラエティ番組オンリーである.要するに余り頭を使わずに,気楽に見られる番組が好まれている.

 先日,明石家さんまが司会する番組で,スタジオ視聴者が拍手をするとさんまが両手,両足をリズミカルに動かし,さんまが動作を止めた瞬間に拍手がピタリととまったのでびっくりした.
  これと同じような体験をTV画面上で何回かしたことがある.ひとつはTV草創〔そうそう〕期の米国からの輸入ドラマである.ドラマの要所要所で画面には映らない視聴者の笑い声が挿入されている.その後,吉本新喜劇の劇場中継でも客席の笑い声が意図的にマイクで拾われて流されているのも知った.要するに,TVの視聴者は「ここで拍手しなさい,ここで笑いなさい」と指示されているのである.たぶんここでブーイングとか「ここで称賛のためいきを」と指示されていることが分かるのは,お昼のタモリの番組笑っていいともである.
  そういえば,TVを見るよりは多少は知的なコミュニケーション行為だと思われるメールや掲示板への書きこみでも,最近「'!';」のような『顔文字』― 私(西嶋)だって使えます―や『笑』や中には『爆笑』などと,自分の文章の中に相手の行為を要求する『ト書き』のような注文をつけるのも流行〔はや〕っている.
  もし上野や新宿の寄席で,吉本の花月の舞台中継のように,ディレクターが腕を回して笑いや拍手を要求すれば最近死んだ人間国宝の小さんやその弟子で気むずかし家の談志などは本気で怒るのではないか.
  TV時代の芸は大勢の人がいっせいに腹を抱えて笑う関西風の芸風であり,諧謔〔かいぎゃく〕や掛詞(かけことば)など両義性を持った『考えオチ』の落語などは通用しなくなるのだろうか? 言語の衰退は,笑いの衰退にもつながる.
(7月1日)