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NPO法人ニュースタート事務局関西

直言曲言(代表コラム)

心のバリケード

 昔あるところで,と自分が若かった頃の話を『昔』と断り書きなしではしにくくなってしまった.1969年の夏,私はある大学の全学共闘会議メンバーとしてバリケード・ストライキ中のキャンパスに泊まりこんでいた.
  TVのワイドショーのリポーターとして俵萌子がやってきて私たちにマイクを向けた.『バリケードの檻〔おり〕の中に閉じこもって,あなた方は動物園のゴリラのようですね』
  そのとき私が何と答えたかは忘れてしまった.きっと何か難しそうな理屈を並べ立てたのではないかと思う.内心は『ブラウン菅の檻の中にいるてめえらの方がゴリラじゃないか』と言いたかったのだが,咄嗟〔とっさ〕にそんな気の利〔き〕いたせりふは出てこなかった.俵萌子も若かった.今じゃ立派な文化人だが,その頃はまだ政治評論家の俵孝太郎と離婚したばかりの,掛けだしのリポーターだった.

 バリケードというのは外部からの侵入をふせぐための≪臨時に構築された障害物≫のことであり,侵入の怖れがなくなったり,侵入を阻む理由がなくなった場合には撤去することを前提にして構築される.

 PTSD(Post traumatic stress disorder)という心理学用語についてはご存知の方も多いだろう.通常『心的外傷後ストレス障害』と訳される.恐ろしい出来事の体験(トラウマ)の後で,不安の昂進〔こうしん〕などの適応障害が起きることを指している.
  アメリカではベトナム帰還兵の精神的トラブルで,これが疾病〔しっぺい〕概念として注目された.日本では阪神淡路大震災の恐怖体験や池田小学校の児童大量殺人の同級生などに,このPTSDが現れているといわれている.
  このPTSD自体は分かりやすい概念だから異論はないのだが,どんな体験がこうしたPTSDを生み出すのか,あるいはどんな対応をして行くべきなのかについて,私は一般的な臨床心理士とはかなり異なった理解をしている.

 日本ではPTSDは前述の大震災や大量殺人など,突発性の大事件,大事故を原因とする考え方が主流のようである.その方がトラウマの後遺症の説明がしやすく,理解が得やすい.私もこうした突発事件・事故の恐怖体験による後遺症を否定するものではない.
  日航機事故〈1985年〉の遺族が肉親の死の悲しみから立ち直るプロセスを描いた野田正彰〈精神科医〉の『喪の途上にて』においても,恐怖や悲しみの体験から立ち直るための『時間』と『儀式』が語られている.フロイトの提唱した理論らしいが,そうした癒〔いや〕されるための時間や儀式の必要性は認めよう.野田氏は私の旧知の人であり,こうした『喪』の必要性を説いている意義は認める.
  しかし,『阪神淡路』の六千名を越える死者とその遺族,もっと遡〔さかのぼ〕れば太平洋戦争の死者とその遺族の悲しみを癒したのは精神科医や心理学者だったのか?それはまったく違う.それぞれが自分で恐怖や悲しみの記憶を忘れて行くように努めた結果である.

 私は,PTSDについては,本家アメリカで問題になったベトナム戦争後遺症のような症例のように,陰湿で持続的な精神的被虐〔ひぎゃく〕の後遺症と考える方が正統であると考える.
  戦争と言っても単に残虐で恐怖に満ちた瞬間的な戦闘の体験ではないような気がする.ベトナム帰還兵の体験は,ベトナム民衆の蔑〔さげす〕みと恨みに満ちた視線や,ジャングルをさ迷いながら闇の中から見つめるベトナム兵士の殺意の視線の恐怖によって形成された,いわば究極の視線恐怖であり,正義の闘いであるという確信もなく,闘い続けさせられる絶望的な自己不信であったのではなかろうか?おそらくベトナムで最も『勇敢』に戦ったであろうグリーンベレーや≪ランボー≫たちの残虐な戦闘体験とは別物である.突発的な大事件,大事故,大戦闘とPTSDは別物であると考えた方が納得がいく.

 わが引きこもりたちも,陰湿で長い闘いを闘わされている.受験戦争から就職戦争に至る終わりなき闘いが,競争相手や勝者や敗者による蔑みと怨嗟〔えんさ〕の視線に晒〔さら〕されながら,その闘いの正統性に確信を持てない若者たちが引きこもるあの現象こそが,日本版のベトナム戦争後遺症ではなかろうか?

 PTSDとは,こうしたトラウマ体験から生まれた対人恐怖,人間不信,自己不信,あらゆる物事に対する猜疑心〔さいぎしん〕が,自己の存在を守ろうとして生み出した『心の自衛システム』ではないか?
  外からの侵入者を排除する心のバリケードなのである.外からの侵入を防ぐために築いたものであるのに,実際にその内側に閉じ込められているのは自分自身であり,引きこもりはそのために自力で這〔は〕い出してくることができない.
  自縄自縛〔じじょうじばく〕とはこの事である.心のバリケードには,鋭い鉄条網が巻かれており,無理矢理引っ張り出そうとすれば,外の人も中の人も互いに傷ついてしまう.俵萌子が外から呼びかけても効果がなかったのと同じである.父親や母親が幾ら声を嗄〔か〕らしても,中から出て来ようとはしない.近づけばお互いが傷つく.

 自衛のためのバリケードだが,バリケードを築くというのは,たいていは緊急避難的な力仕事である.設計図などあるはずがない.そこら辺〔あた〕りにある材料は何でも放りこんで,組み込ませて,縛り上げている.
  一人で構築したものだが,いざとなって,自力で脱構築しようと思っても一人では崩すことができない.おまけに,バリケードはたいてい外から崩そうと思っても簡単には崩せないようにできている.外から呼びかけて,中の人が呼応したときに,バリケードを壊すチャンスが生まれる.ニュースタートパートナーの活躍のチャンスである.NSPはバリケード撤去隊だが,ときには鉄条網に跳ね返されたり,その棘〔とげ〕に傷つくこともないではない.

 バリケードを撤去させるために何をしなければならないか?バリケードの『不当性』を指摘していても始まらない.そもそも,バリケードはどのような『敵』の侵入を防ぐために構築されたのかを整理する必要がある.最初は,それはかなり明確であった.訳の分からない戦闘に巻きこもうとする社会や人々,友達のような顔をしながら,常に足を引っ張ろうとしている人々.
  しかし,そのうちにバリケードを維持すること自体が目的になってしまっていた.どんな敵の侵入を防ぐのかではなく,バリケードに侵入してくる人間こそが『敵』になってしまっている.
  最初は敵でなかったはずの父親は,バリケードを日夜出入りし『社会』の側の人間になっているから敵である.その敵の仲間であるはずの母親は,いつもバリケードの内側にいるから味方である.しかし,味方である母親は,敵である父親と<内通>しているから油断のならない味方であり,説得には耳を貸さない.外からやってくる人間は一応すべて敵とみなす.
  しかし,バリケードを破壊する目的ではなく,面会を求めてくる人間には,おさおさ油断を怠りなくしながら,会ってみようかなと思う.次第に,自分は誰の侵入を阻止するためにバリケードを構築していたのかが分からなくなり,バリケードを壊しても構わないと考えるようになる.

 奥の手がある.バリケードは残したまま,鍋の会に誘ってみる.見まわした所,鍋の会の参加者には敵らしい人間がいない.敵の侵入を防ぐはずのバリケードはもう必要ないのではないか?と思う.さらに,もう一つの奥の手.バリケードの中で鍋の会を開く.
(6月19日)