続・お金の話
いま,引きこもりといわれる青年たちは,多少の幅を持たせて考えなければならないが,18歳〜20歳台後半にかけて最も多く分布すると見られる.その親達の世代は概〔おおむ〕ね45歳〜60歳前後に分布している.1942年〜1957年頃の生まれである.
中でも1947年〜1950年生まれ(51歳〜55歳)の世代は『団塊の世代』と言って,人口分布からも大きなボリュームゾーンを占めており,さまざまな社会現象の主役を演じてきたことはご存知の通りである.
その最前列に位置する1947年(昭和22年)生まれと言えば,戦地から復員してきた元兵士が結婚し,まもなく第一子が生まれたというのがこの世代の典型的なライフステージに該当するだろう.この頃の日本は戦後の混乱期であり,多くの日本人が貧しさの中で喘〔あえ〕いでいた.
今『貧しい』と言えば,≪資産がない,所得が少ない≫ことを意味するが,この頃はお金があっても買うものがない時代であり,だれもが横並びの貧困生活であったから,逆に貧富の差というようなものはあまり意識しなかったように記憶している.もっとも,この『団塊の世代』自体はまだ生まれたばかりであり,貧しくて苦労をしたのはその親達(今の引きこもり青年たちから見れば祖父母の世代)である.
祖父母の世代は,戦争の焼け跡から這〔は〕い上がり,朝鮮戦争(1950年)の特需〔とくじゅ〕で一息つき,その後,池田内閣の「所得倍増論」(1960年)後の高度経済成長に乗って『豊かな国ニッポン』が形成されて行く.
1947年生まれの『団塊の世代』の先頭が大学入学年齢に達するのは1965年.やがて大学は全共闘時代を迎え,貧しさからの完全脱出として大卒資格を得て企業社会に入っていくものと,選ばれた者としての特権を拒絶して大卒資格自体を捨てようとする者に二分されて行く.いずれにしても『全共闘』時代そのものが左翼学生運動の崩壊の中で解体され,1970年の万博景気にのみ込まれていく.『政治の季節』などと言う言葉を聞いたのもこのころまでで,その後は良くも悪くも一貫して『お金の季節』であった.
同時に『団塊の世代』たちの≪ブライダルブーム≫が続き,当然のごとくその後に≪ベビーブーム≫がやって来た.その先頭世代が現在30歳だとすれば 1972年生まれ,末っ子が20歳だとすれば1982年生まれである.1982年11月に登場した中曽根政権は「戦後政治の総決算」を標榜〔ひょうぼう〕し,1985年プラザ合意(米國のドル高是正に向けての協調介入の合意,これにより日本は国際的地位向上に向けての積極財政に転じる)を契機に,日本は『バブル経済』の時代に突入する.
いずれにしても引きこもり青年たちの最初の記憶や多感な少年期の意識は,バブル経済の狂奔〔きょうほん〕とその崩壊(1991年)の中で形成された.
お金というものが,いかに人間の尊厳を奔放〔ほんぽう〕に揺れ動かし,尊大なものにしたり,下劣なものにするかを目の当たりにしたのである.ただし,そんなことにはまったく無関心であったり,感性を刺激されなかったりした若者は,引きこもりになどになりはしなかったし,さしあたりここでは対象外の存在なので論及はしない.
引きこもりの若者達は,親たちの団塊の世代が,株や土地の乱高下で大儲けしようが,大損しようが,とりあえずそのことの直接的な影響は免れ,それ以前からの日本の社会的慣行ともいえる受験勉強や競争社会への参入を強いられた.
奇〔く〕しくも日本のバブル経済崩壊に前後して,ベルリンの壁崩壊(1989年)から東欧諸国の社会主義政権が次々に倒れ,東西冷戦がなくなり,社会主義経済に対する市場経済の優勢,つまりは競争原理の優勢が社会通念となっていった.つまりは,受験勉強につづく就職戦争など競争原理に疑問符を投げかけるものは,すぐさま敗北者の指定席に導かれるのである.
よほど鈍感な者でない限り,それは身近な記憶としてある,<あの人間の尊厳を翻弄するもの>としての≪お金≫=貨幣経済への拝跪〔はいき〕であることは分かる.
当事者であった団塊の世代の親たちには,単なる景気変動の一齣〔ひとこま〕にしか見えなかったとしても,バブルの狂奔と崩壊の狭間〔はざま〕で垣間〔かいま〕見た<お金>の魔性は,引きこもりになる若者達にとっては,恐怖の原体験であり,潜在下の意識に刻印されたトラウマなのである.
競争に参加しつづける,あるいは無事に競争に勝ち遂〔とお〕せることがなければ敗北者の指定席が待っている.勝利者を目指すこと自体がトラウマの虜〔とりこ〕としての人生を目指すことになる.
あるいは,そうした選択の渦中〔かちゅう〕で図〔はか〕らずも競争を降りてしまったり,競争の敗北者(受験の失敗,就職の失敗)になった者たちは,勝ち組に対して自分を負け組と位置付けて,そこからの敗者復活戦に希望をつなごうとする.
残念ながら,引きこもりの青年の,かなりの部分は,仮に引きこもり状態から脱して,社会的な交流が可能になっても,このお金(貨幣)意識のトラウマ(原体験)を克服してはいず,「敗者復活戦」に賭けている人が多いのである.
彼らの多くは,受験勉強などの勉学途上で挫折するが,学歴そのものや勉学そのものの機会を失ったから負け組と意識しているのではない.仮に親が,数億円以上の資産家で,つまりはバブルの勝ち組であったなら,その後の自分自身の勝ち負けは問題ではないのであり,その意味では,まさに勝ち負けそのものが『お金の話』なのである.
この『敗者復活戦』に賭ける若者達の姿を見ていると非常に危〔あや〕うい思いをする.彼らにとって『敗者復活戦』であるから≪後がない≫のである.≪ここで負ければお終い≫と考えている節〔ふし〕もある.
ただ『一次予選』で≪敗退≫しているので,多少のしたたかさは身につけている.私としては『人生には勝ちも負けもない』ということを学んでほしいと思う.
少なくとも人生は一回負ければお終〔しま〕いか,敗者復活戦が待っているだけのような≪トーナメント戦≫ではなく,総当りのリーグ戦であり,しかも,オリンピックのように短期決戦でメダルの色を争うようなゲームではないということである.
『お金の話』を書いたついでに,私も多少関係している『地域通貨』にも触れておきたい.
地域通貨は各国中央銀行が発行する法貨としての通貨とは違う,ある一定の地域社会やメンバー相互間などの中だけでの取引に利用しようとする通貨のことである.
日銀券などの通貨は,他国通貨との交換レートも定められており,各国経済の盛衰により貨幣価値も変動する.時には,他国の通貨に駆逐され,あるいは大資本の活動や投機資金などの暗躍により,地域の末端に行き渡らなくなることもある.銀行から借り入れて,取引をする人は良いが,十分な貯〔たくわ〕えを持たない人や信用力のない人は,経済取引に参加できなくなる.
そんな所に地域通貨の活躍する余地がある.LETS〔=Local Exchange Trading System〕タイプの地域通貨は通帳の残高がゼロでも買い物(物品やサービスの交換)ができる.別の言い方をすれば,お金を持っていない人にも購買力を認めているので,(地域の)経済は活性化する.また,日銀券では通常,売買できないものでも交換対象になる.例えば肩叩きや,掃除サービスや民宿でもない自宅での宿泊サービスや食事なども取引できる.地域通貨の流通量は売った人(プラス)と買った人(マイナス)の合計であり,メンバー全体では常にプラスマイナスゼロなのである.
ところで,引きこもりからの脱出過程にある人は,この仕組みが理解しにくい.より多く買い物をした人(マイナスがたまる)が『得をしている』と考えたり,買い物をする(マイナス)ことと,ものやサービスを売る(プラス)ことは常に個人単位でバランスしていなければ行けないと考える.ここでも損と得,勝ちと負けとの考え方に囚われている.
(3月14日)