直言曲言 第302回 夢
「こんな夢を見た」というセリフで始まるいくつかの挿話のオムニバスで構成されている映画があった。黒澤彰の「夢」という映画である。黒澤の映画は昔から良く見ているし好きである。娯楽映画の巨匠であるし、名監督でもある。但し、彼が特別な偉人であり、哲人であるというような感想は持っていない。この映画にしても「夢」の内容は凡庸であり、驚くようなものではなかった。但し、映像は美しかったし、こんな着想で映画が出来るなんて「さすが名監督」と思わせるものがあった。
「夢」と言うのには2種類あって、夜、眠っている時に見る「夢」と覚醒している時にも見る「夢」、こちらは夢想と言ってよいのだろうか。英語にするとどちらもdream、英語でも区別はないらしい。アメリカンドリームと言う言葉があるが、こちらは後者の夢であって、fantasyの意味が強いのかもしれない。公民権運動で有名な暗殺されたキング牧師の「私には夢がある。」も「I have a dream」と眠りの中で見る夢と変わりがない。このようにアメリカンドリームとはアメリカ人が夢想する夢で、その夢が実現可能なことを意味するが、太平洋戦争後半世紀、日本人もこのアメリカンドリームに翻弄されたと言える。
戦後の日本社会はアメリカ文化の洪水であった。敗戦の衝撃から立ち直れず、食糧供給もままならない頃からアメリカに完全に文化支配されていた日本は何に関わらず、アメリカに憧れていて、分かりやすい分野ではアメリカ製のマンガが日本人の文化生活のモデルになった。アメリカのホームドラマではテレビがあり、大型冷蔵庫の中には食品がびっしりと詰まっており、家族そろって出かける時には乗用車を疾駆させる。おそらく日本だけではなく、世界中の国々がこのアメリカンライフと言うものを信頼し、憧れを持ったと思われる。やがて数十年をかけてではあるが、このアメリカンライフは世界に浸透していった。もちろん米国企業からこうした車や電化製品を購入することによってである。米国に軍事基地を提供することや核の傘に入ることなど、政治的にも軍事的にも傘下の同盟国になることがその条件であった。日本の政治家たちが、アメリカンドリーム(豊かさ)を手に入れるためにこれほど簡単に洗脳されてしまったのかと思うと呆れるばかりである。政治家、ならぬ庶民たちが、豊かさや文化的生活を手に入れるためにアメリカに憧れ、アメリカを崇拝したのは無理からぬことである。アメリカは世界の先進国としての地位を守るために、各地で戦争をし、核大国を維持し、経済体制を守り続けてきた。その結果としてのドルの暴落や住宅ローン破たんや金融体制の崩壊、そしてアメリカやその追随国を次々に襲いつつある経済不況…。アメリカンドリームを追求した以上、そこまでは既定路線として受け入れなければアメリカンドリームの本家・アメリカとしても納得してもらえないだろう。
ところで、今回言いたいのは、近頃相変わらずのことだが、「夢」と「信仰」と「妄想」のことである。まず夢のことを書いたが、夢にも良い夢と悪い夢がある。眠りの中で見る夢と夢想する夢にも悪い夢、良い夢がある。「妄想」と呼ばれる夢は良い、悪いという基準ではなく、現実社会の中で一般に肯定される夢であるかどうか。その人自身や周囲の人びとにその夢想結果が良い影響をもたらすかどうかによって呼び方が異なっているようだ。いまさら言うまでもないことだが、「妄想」だと言われたからと言って、「現実にはあり得ない間違った夢想」だと言うのではない。だが、自分は今「世の中の多数派とは違う」思いを抱いている、程度に受け止めればよい。
世の中には、宗教を信じている人と信じていない人がいる。両者が同じような学力や理性を持っているとしても、ある種の宗教的真実をめぐっては両者の主張は食い違うであろう。例えば神は『実在する』のかしないのかという単純な事実についてである。無宗教者にとって、様々な宗教的な前提を置かずに語られる神の奇跡は是認することは出来ない。宗教者にとっては『神の奇跡』を信じることこそ信仰そのものであり、それは学問や知識の問題ではない。無宗教者にとって、宗教者の「信仰」とは一般に言う「妄想」と変わらないほどかたくなな真実ではない思い込みなのだが、これが「宗教」である限り宗教的妄想は「信仰」として許される。おそらく宗教と一般社会の間で引かれている「妥協」線なのではないか。宗教の側では「妥協」などしているつもりはないのだが、一般社会の側では出来るだけ軋轢を生みたくないので、奇妙に妥協する。キリスト教はもちろん、仏教やおそらくイスラム社会の中ではイスラム教徒も妥協ラインが敷かれている。中世における織田信長が叡山を焼き打ちしたり石山本願寺攻めを行ったりしたのは当時の権力者である信長が宗教的妥協を行わなかったからではないのか。宗教は一般社会には妥協を求めるけれど、宗教同士では非妥協的な戦いを求める。イスラムとキリスト世界の間の聖戦もそのようなものであろうか。
一般社会の側も既成宗教に対しては寛容であるけれど、いわゆる新興宗教やオカルトと言われる勢力に対しては非妥協的である。未だに法律上の決着はついていないが、オウム真理教やサリン事件は記憶に新しい。オウム真理教の「信仰」の神髄がどこにあったかは別として、彼らの「信仰」が現実社会に矛先を向けてきたのだから仕方なく防衛機能を発揮せざるをなったのかもしれない。つまりは「信仰」であれ「妄想」であれ、それらが許容されるのは一般社会、現実社会の住人たちが彼らの存在が許容されていると感じる範囲内なのである。
引きこもりの夢想の一部は明らかに「妄想」として非難されている。しかも自然科学の名を借りた精神医学の力を借りた親たちによって、「妄想」は統合失調症の表れとして、葬り去られようとする。私は、私自身は無宗教者だが、一般的に宗教は否定しようとしない。精神病院によってわが子を圧殺しようとする一部の親は、自分自身精神的緊張に耐えきれずに、新興宗教により「救済」を得ようとしている。もはや私は宗教と妥協し、自身の妄想を正当化するために宗教に救いを求め、悪魔の手を借りて引きこもりを圧殺しようとする人々を許すことはできない。私は妄想のすべてを是認するわけではないが、現実社会の過剰なストレスや痛みを緩和するための鎮痛剤としての宗教や引きこもりを自然科学の名を借りた排除の科学で掃き清める暴虐を許すことは出来ない。むしろ我々人間にはどれだけの「妄想」を許容出来るかの想像力が問われている。
2011.1.11.