直言曲言 第295回 すれ違い
1998年10月以来私は引きこもり問題を扱う民間活動家として働いてきた。私は精神医学や心理学の専門家ではなく、少年問題や教育の専門家であった経験もない。しかも引きこもり問題は未だ未解明であり、日々新たな事例や症状もあらわれる困難な領域である。この「直言曲言」にしてもほぼ10年300回に近く重ねているがまだまだ書くことは尽きないようである。私はまるで長い研究歴を持つ学者のように書き続けてきたが、実はあの1998年10月の二神能基氏(NPO法人ニュースタート事務局理事長)が大阪講演会で話されたことがすべての話のネタ元である。講演会と言っても二神氏は100名余の聴衆を前に1時間足らず話をされただけである。その時の不思議な言葉を私は2ページほどのメモにした。そのメモを図表化したのが今も個別面談に使っている「引きこもり構造図」である。私は10年かけてその時の二神語録を研究しているようなものだ。
その時の講演会で、参加者の一人が「これからも引きこもり問題を理解していくために勉強していきたい」と述べた。二神氏は「親御さんが勉強していくというのは無理だ」と突き放した。私は「なんという冷たいことを言う人だろう」と思った。私にとって二神氏は引きこもり問題の師匠であるが、この点だけは納得がいかないまま今日に至っている。親が自ら引きこもり問題を解決するのは難しく、そのために「第三者に委ねなさい」と言うのは鉄則になっている。しかし「勉強しても無理」と言うのは人間の進歩を否定しているようで、私には我慢がならなかった。
二神理事長は多くの著書を持つが『暴力は親に向かう』という書籍が文庫化されたのを機会に先月高槻市で「すれ違う親と子の処方箋」と題する講演会を開いた。引きこもり問題では「親が変わらなければ」問題は解決できない、と言われている。二神氏はこの席で「親が変われと言われているが、親が変わるのは無理」と断言した。これを聞いていたある母親は、講演会の帰途に「悔しくて泣いた」と今月の例会で報告した。私はこれを聞いて、最初の講演会と同じ趣旨の発言だなと思いつつ二神氏の影響力の強さに軽い嫉妬を覚えた。親が努力をしても変われない。勉強しても無理と言うのは、親と子に問題意識のすれ違いがあり理解し合えないということなのだろう。10年以上引きこもり問題を考えてきて、引きこもりそのものは解決していくのに、親と子が本当に理解しあって問題が解決するということはなかった。
先日の例会でも相変わらずのすれ違いぶりだった。親は引きこもりの子どもたちの傍若無人振りを訴える。話しかけても口をきいてくれない。食事を用意しても一緒に食べない。十年一日のごとくに親の話は同じだ。参加している他の親たちも一斉にうなづく。ある親は引きこもりの息子の『自殺念慮』が強く「四六時中」見張っていなければならないと話した。「自殺したい」と親にアピールする子は多いが、実際に実行してしまう子は少なく、この子のように『念慮』が強く、失敗しないように自殺の機会を狙っている子も中に入るだろう。参加している他の親たちにも心当たりがあるらしく、その親は盛んに同情を集めていた。しかしひとしきりその親の話が終わると、親たちはさも当然のごとく、「学校に復学して欲しい」とか「引きこもっていないで就職して欲しい」とか口々に訴え始めた。「自殺希望」の子の親は「なぜ、自殺したがっているのか?」は述べなかったが、理由も詮索せず自殺しないように四六時中見張っているらしかった。たとえ「理由」が何であれ、自殺を見逃すわけにはいかないが、「死にたい気持ち」も理解しようとされず、自殺も出来ないその子が哀れな感じがした。おそらく、死にたくなるような悩みや苦しみがあるのではなく、生きている意味が分からないのではないか。日本では今、年間3万人以上の自殺者があるという。多くは中高年で病苦や借金などの経済苦が理由だという。二十代の若者に借金や病苦はない。大きなマイナスを抱えてのことではなく、生きていくことの喜びも知らない、つまりプラスもマイナスもないゼロだから、安易に死んでしまいたい。ゼロにしたいと思うのではないか。
それでは「生きていくことの歓び」とは何だろうか。多くの大人たちもそんな抽象的なことは考えたこともないかもしれない。あるいは考えたことはあっても、今はもう忘れてしまっているだろう。若者たちの引きこもりとは、未経験の人生をいかに生きていくかの悩みではないだろうか。私は人生の歓びは「自分に与えられたものを一生懸命に楽しむことではないか」と思っている。「ちょっとした才能、さまざまな障害やハンディ、日々の食べ物、庭の草花、妻や子や孫の笑顔」あらゆるものが自分を楽しませるために用意された恩寵だと思えば人生の歓びは毎日身の回りにある。引きこもりの子を見ていると、自立を迎える青春期の前からあらゆる競争に巻き込まれ、喜びを味わう前から苦痛にも似た義務に苛まれ、父も母も「それが人生なのだ」と教える。親は子の引きこもりの悩みが分からない。この悩みは人生をいかに生きるかという抽象的なものだ。子は形而上学(メタフィジックス)的な問題で悩んでいるのに親たちの関心事は子に「要領よく生きて欲しい」とばかりに「就職して欲しい」とか「高校や大学を卒業して欲しい」のような形而下の要求ばかり。形而下の要求がいけないとは言わないが、子どもは「親と話しても無駄」と思うのは仕方がないだろう。親と子では考えていることのレベルがあまりにも違いすぎる。
二神氏が言う「親が変わろうと思っても無駄」とはこのことだったのだ。親は真面目に考えて対処しようと思っているのだろうが、子の思いのレベルに比べたらあまりにも違いすぎる。これでは「親は変われない」のではないか。この競争社会の中で必死に生きて来た過去は仕方ないとして、未来に向けて「いかに生きるべきか」に直面している我が子たちの引きこもりを前にして、少しは自分の人生も見直してくれないだろうか。私は多くの引きこもりを前にして思うのは、早くから競争・競争と追い込まれてきた彼らの人生と貴重な青春を、たとえビデオの早回しのようでも良いから、もう一度体験しなおしさせてあげることは出来ないか。自分に与えられた人生の楽しみを、生きる歓びを全うさせてあげることは出来ないか。それは他人と競いながら学校を卒業することや、他人を恐れながら人よりも多くの金を稼ぐことよりも大切なことであるはずだ。競争に打ち勝つことだけを教えて、人生の歓びを味わうことを教えてくれない親ってなんだろう。生きる力を教えられる親に変わって欲しい。
2010.04.28.