直言曲言 第294回 嫌人化
人には誰でも「好き嫌い」がある。特に嗜好品については「好き嫌い」は「人それぞれ」である。特に好みが分かれるのは匂いの強い食品である。納豆・にんにく・糠漬け漬物などは好きな人にとっては毎日の食卓に欠かせないものであるが、嫌いな人には見るのも嫌い、生まれてから口にしたこともないという人が多い。食品以外の嗜好品についても同じである。「嫌煙権」とは煙草の煙を嫌う人の「煙を遠ざける権利」のことだが、この「嫌煙権」だけが他人の嗜好性を否定して、自分の「好み」を主張する権利があるようである。
煙草の煙が嫌な人が近くでたばこを吸って欲しくないという気持ちは分かる。人の集まる場所で喫煙を禁じるとか、たばこを吸う人と吸わない人の居場所を分ける「分煙」までは分かるのだが、ほとんどの場所を禁煙にしたり罰則を設けるのはいかがなものだろうか?副流煙とかという、吸わない人が受ける煙草の害などという病理まで発明して禁煙を強いるようになるとは「わがまま」にも「ほどがある」と思うのだが。好き嫌いで他人の行動を制限するのなら、納豆嫌いやニンニク嫌いの人も身近で納豆やニンニクを食べられるのは辟易とすると思うのだが。尤も私はタバコや酒と同様に納豆もニンニクも好む方だからこの「嫌○権」と言うやつにはあまり発言権のない人間であるらしい。
さて、私たちは引きこもり問題の解決や予防に努力をしてきたつもりだが、引きこもりについてはそろそろ「単純化」して「対人恐怖」や「人間不信」がその病理的中心症状だと言いきって良い頃だと思う。従ってその症状緩和についても「友だち」づくりが唯一の解決策だと断言してよい。その「友達」づくりを実行するならば「引きこもりは必ず解決する」と自信を持って断言してよい。世にいう「病気」の治癒状況や「病院」や「医師」の関与の度合いを見ても、特に難病の事例を持ち出さずとも、引きこもりは十分な解決実績を持っている。ただし,「友だちづくり」が唯一の解決策だとしてその解決策を素直に受け入れることが条件である。引きこもりの認識には社会観や人間観・金銭観が関わる。人によっては病識そのものが全く無かったり、それを頑固に拒否し続ける人がいる。これなど出血をしているのに止血せずに重症化するようなものである。
ここまでは、われわれが引きこもり問題の解決に12年間関わってきて得た一般的結論であり、一つの「成果」であると思っている。私もその「成果」を手土産としてそろそろ「引退」させてもらおうかと思っているのだが、前々から持論として持っている個別事例の解決だけでなく引きこもりの「社会的予防」という観点から見ると甚だ心もとないのである。「引きこもりの完治」という面で見ても、ここで述べた寛快事例は再発懸念がなくなったわけではない。確かに「友だちづくり」は出来て、何とか「社会参加」は出来るようになっているが、一人一人の予後を見てみると対人「恐怖」が完全になくなっているとは言えず、もちろん「社会」の側の不完全性もあり、正社員として堂々とした「社会参加」が出来ている人はごくわずかなのが実情である。
引きこもりから脱却して、一応の社会参加が出来ている人でも、正直にいえば何とか仕事をして一応の「食っていくための仕事」をやっていると言える程度であり、どこかに昔からの「人間不信」「人嫌い」の後遺症を残しているのが実情ではないか。「嫌煙権」と同じような言い方をすれば「嫌人症」とでもいうべき症状は完治していないのである。「対人恐怖」であった引きこもり時代に比べると、人前でおどおどすることはなくなったが、「人間が好きか?」と問われるなら「苦手」と言わざるを得ないのである。嫌煙権と同じように「嫌人権」を主張するかと言えば、それほどの厚かましさもなく自信なさげに人を避けてしまうのである。
ところでこのことは引きこもりの人の後遺症として見受けられるだけでなく、実は内気な人すべてに共通する気性として顕著になりつつあるのではないか?すべての人の性格を見通せるわけではないので「内気な人」という限定をつけたが、実はこの人間嫌い、「嫌人化」と言うのは現代人・未来人に共通する性格ではないか。この地球上の人口は国連統計によると1950年には25億人ほどであった。1960年には30億人になり、今年、2010年には推計で63億人になっている。少なくともこの50年の間に倍増してしまったのは確かである。当然のことながらも、人口密度と言うのも倍になっている。ご存知のように中国やインドは人口1・2位であり、人口爆発ともいえる爆発的増加の現場である。先進国である欧米や日本は既にそうした人口急増期は過ぎ、日本では合計特殊出生率が1.3台に陥るなど人口急減や将来的な消滅が心配されるほどの事態に陥っている。
もちろん世界人口の増加率も一律ではない。1億年も前には地球上に数万人しか住んでいなかったし、増加率も長いことゼロパーセントでしかなかった。1970年ころ増加率は最大になり、今また増加率は緩やかになりつつある。しかし1970年頃と言えば日本では経済成長率もピークを迎え、将来の食糧危機や地球環境危機も話題になった。公害や地球温暖化や異常気象もCO2の発生量が問題になる以前に人間たちの地球環境の酷使が地球のリズムを狂わせたのではないか。地球の未来に明るい夢を抱くよりも以前に人口の急増は暗い未来を予測させた。そんなことが人間を人間嫌いにさせていった。人口密度の問題は数字の問題以前に、自分の近くにいる人間をなんとなく疎ましい存在として認識させていった。このことは「引きこもりたちの人間不信」のように特別な問題ではない。われわれ普通の人間の心のうちにも知らず知らずのうちに芽生えてしまっている恐ろしい病気の初期症状のようなものではないか。子どもの数が減っているのは、単に保育所の数が整備されていないからではない。男女の婚姻が減少すれば人口が減少するのは当然ではないか。若者たちが結婚しなくなってきたのは、若者たちの気性の変化や経済的理由だけではないだろうか。人が人を嫌うようになれば異性だけではなく、他人を共に暮らす相手として選ぶだろうか。人の密度が高くなれば嫌煙権のように、人は自分の好みや自由をますます主張するようになるのだろう。嫌人権は究極の人権として堂々と主張される時代がやって来そうな気がする。そんな時分煙ルームのような隔離された場所で人は生きていかなければならないかもしれない。それは人類滅亡の兆しであり、引きこもりは未来を警告する兆しであるような気がする。
2010.04.19.