直言曲言 第291回 システム
「システム」という語を広辞苑で引くと「組織」「制度」などの訳語が見える。私の主観だが「システマティック」なら「組織的」という語感はするが「システム」を「組織」と訳すにはやや抵抗がある。日本語で組織と言うと、構造のしっかりした「静的」な仕組みのようなイメージであり「システム」の方は有機的で柔構造の動的イメージである。と言っても「システム」と言うのは十分に日本語として通用しており、この語が登場するたびに国語辞典で意味を確かめる人などめったにいないだろう。
Aと言うレバーを引くとBと言う隣の台が動くというのは単純な道具のイメージで、Aというボタンを押すと隣のBCDの歯車を経てEの滑車が動き出すというのがいかにもシステム的で機械仕掛けの感じがする。と言ってもこれはあくまでも私のイメージであって、なんの根拠もない言葉の受け止め方であろう。いずれにしても私はこの「システム」という言葉が好きで、物理的なシステムにしても社会的なシステムにしても様々な仕掛けによって連動する構造というものに興味を持ってきた。と言っても私は特に機械好きなわけではなく、どちらかと言うと制度とか規範とかいう社会的なシステムに対する興味を持ってきた。システムというものが社会的に定着するとそれはその時代の人々の考え方であり、思想と言ってもよい。その思想が社会の主流となるとそれが社会の規範となり、やがてそれが制度として機能することにもなる。法や道徳なども社会的なシステムの社会に対する規制の度合いによって定められるものであろう。
人間は単独では生きていけない生物であるから、社会を構成して暮らしている。集団で社会を構成しその集団を運営していくうえでさまざまなルールを生み出してきた。それも社会的なシステムと言ってよいものだろう。社会的なシステムの一つに、富の交換や分配のシステムとして経済システムがある。資本主義や共産主義も経済システムの一つでその優劣は未だ決まっていない。20世紀の後半、社会主義国家のいくつかは破たんに直面し、その破たんを取り繕おうとして独裁的な国家運営に走り、自ら命運を絶ったがそれは資本主義の勝利と言えるものではなかった。21世紀早々、資本主義の現実的形態としての自由主義経済戦争は大恐慌を巻き起こし、結果的にさまざまなサブシステムの破たんを招来した。
経済システムと言えば原始的な社会の中で芽生えた分業制がその初めだった。農業や漁業の複合的な生産システムの中で発展を続けた人類の集落は、やがて直接的な食糧の生産に携わる人々と、衣服や道具の生産に携わる人々に分業し、その分業の効率化によって富を蓄積し、分業を細分化する中で産業の発展を図ってきた。そこまでは人類共通の道程であったはずだが、資本主義という経済システムを発見した一群は資本と言う支配と増殖の方式を編み出し、自らは直接には何ら生産に関わらないシステムを考案した。そこにおいて分業は際限なき細分化の道を突き進み、今や生産と消費までが分業化され、それが現実的な経済の格差へと固定化されていった。しかし、文明の発展はかつて社会主義と資本主義の格差を情報というメディアが暴露していったように、地球上の南北格差をグローバリズムと言う侵略の美名やレトリックではなく、格差是正という物理的な重力的な均等化圧力が突き動かしつつあるのである。
分業の行き過ぎというものはわずか半世紀余りの中にも、歴史の屑籠の中に捨てられつつある。特に戦後の日本では高度経済成長期に生活システムが激しく変化し、あらゆる分業が試みられ、受け入れられていった。その中でもシステムを激しく変化させたのは男女の性的役割の分業ではなかったか。分業の役割変化そのものの功罪は別として、封建制度の中で固定化されたジェンダーによる役割の固定化は、近・現代の自我に目覚めつつある女性たちを男性の膝下から解放せざるを得なかった。技術革新による家電製品の普及は主婦を家事労働から解放すると同時に産業労働力として召還するという二重の効果を生みだした。安手の社会学的考察の中には家電の普及が主婦の家事離れを推進し、家事サービスの外化をもたらしたとするものもあるが、家電普及がサービスの外化に直結するはずはない。家電普及は本来外部専門家にゆだねていた家事サービスを内部化するはずである。高度経済成長による女性労働力要請を媒介にしなければ家庭内サービスの外化というプロセスをたどるはずがない。家庭内サービスの外化の顕著なものは食サービスの外化である。冷凍食品の普及による一部調理過程の外化や食そのものの外化としての外食産業の普及など共食共同体としての家族の根幹を脅かすようなシステム変化がもたらされた。家族の崩壊危機は「悪乗り」した男たちの戯言として「性」の外化まで主張され始め事実、大都市の巷では購入者不明のセックスサービスまでが氾濫している。
サービス外化の中で実は最も早くから進行し、その功罪が家族制度まで崩壊させかねないのが教育の外化ではないか。教育の外化は明治期の学校教育令により尋常小学校制度が始まり教育の一般庶民への普及に大きく貢献したが、戦後の高度成長期以後産業戦線に駆り出された父母はますます忙しくなると同時に、産業構造の高度化に伴い学歴社会化が進み、進学戦争も熾烈化した。教育の高度化は進学率の高低に置き換えられ、父母は教育を進学指導の専門家たる教師に委ねざるを得なくなる。おそらく基礎的人格の形成過程としての義務教育と高等教育課程は分離していたはずのものが進学競争の低年齢化によりすべては高等教育課程への準備機関化した。そもそも学校教育以前から、高度な知識や技術はともかく人として、社会的動物としての基礎知識を学ぶシステムは存在したはずである。それは共同体の長老や一族の家長、コミュニティの構成員などすべての人々によって支えられていたはずである。戦後の高度成長期や核家族化の中で家族は解体され、「共育」のシステムは崩壊した。子どもは私有財の極致のような扱いを受け、同時に私的幸福獲得戦争の兵士として、残酷な訓練を押し付けられる存在となった。この残酷な仕打ちに拒否を表明し始めたのが「引きこもり」の若者たちである。父母たちは、自分たちの多忙さをあげつらい、「共育」の責任を放棄しておきながら子どもたちの不全を学校の責任に押し付けようとしている。「進学教育」は別として「人間共育」は父母二人がかりでも不十分なのである。子育て手当の支給によって話題になりつつある、社会みんなによる「共育システム」を再構築しなければならない時期に来ているのではないか。
2010.03.08.