直言曲言 第289回 迷 い
「引きこもり」って何だろう?別に学術的に定義しようとは思わないけれど、支援活動に参加して12年、1000例を超える引きこもりにお会いしてさまざまな認識はある。その知見を考察して「引きこもり」の解決や予防にお役に立てないかと思うのは当然だろう。引きこもりは100万人を超える発症例があるという。引きこもりの支援活動に関わる人も多数いる。私自身の経験から見ると、単に現行社会の道徳観から見て引きこもりを倫理的に批判する人、親の立場を無条件に追認して引きこもり本人を無理やりに矯正しようとする人などがいる。そういう人がいると、何とか自説を検証して引きこもり論を確立させたいと言う思いがある。もちろん確立させなければならないのは引きこもりから脱却させる方法なのだが、そのためには引きこもりがどんな原因で起きるのかであり、それが分かれば引きこもりを予防できるとも思っている。
私は「引きこもりは病気ではない」と主張してきた。これは「引きこもり」を「精神病」として扱う精神科医や親たちに反発して「引きこもりは精神病ではない」と証明しようとしてきたのである。もちろん私は精神科医でも何でもない。精神病とは何かということに思い惑わされてきた市井の一学徒のつもりである。そもそも「精神病」というものが何であるのかが明確にされていない。「精神に異常をきたす」というのは分かる。「分かる」という言葉に語弊があるなら「想像できる」と言おう。それでは「精神」とは何なのか?精神医学的な説明を聞く前に普通に考えれば、脳内の神経システムの働きによる「思考」行為であろう。その思考=精神の(病)であるなら「思考の混乱」と考えてもよいのか?こんな言い方をすると私が峻別をしようとしている神経症と精神病が似たようなものになってくる。しかし医学関係者の発言によれば神経症は「精神病ではない心(脳の働き)の病」と書いてあり、神経症と精神病の違いは明白なようである。神経症は心の病、精神病は脳の病と区別すれば分かりやすそうだが、心=脳の働きなどと言うと混乱は無限連鎖してしまう。要するに精神病とは何かについては精神医学のフィールドでも研究中の事柄であるらしく、精神病の多くの定義については暫定的な了解事項でしかないらしい。しかし「暫定的」とは言え、現実には精神病院というのが実在し、治療と称されるものが行われている以上そこにあからさまな疑問符をさしはさんではいけないらしい。
精神病関係の医学書の中で私が唯一「自然科学」的な記述だと思えるものに遭遇するのは神経伝達物質なるものが存在し、その異常が私の言う思考=精神の混乱を引き起こすということらしい。その「混乱」というのは臨床的にも科学的な整理がなされているわけではなく、要するに通常人の理解を超える言動は精神病という診断をする病状の範疇に入るらしい。現時点の精神医学の世界をこれ以上深追いしても得られるものは少ないだろう。しかし、本来なら秩序的な機能をするはずの脳神経の精神活動が精神病と言われる段階において秩序を乱すとすれば、ある種のアトランダムな暴走をするのではないかというのが私の予見である。他の精神病のことはもちろん分からないのだが、少なくとも「引きこもり」においては余りにも症例が似ている。症例と言っても私があったのは12年間でわずか1000例余。しかもしかも医師でもない私が見て来た経験にすぎない。薬学的な実験も解剖学的な所見もあるわけではない。発症時期、発症環境、主体要因、経過状況、改善契機どれをとっても90%程度の類似性を持っている。私はこれを見てきて、アトランダムに発症する精神病ではなく、100万もの症例に匹敵するマクロの社会的要因があると確信してきた。むしろ「引きこもりこそ病である」と目星をつけて来た。であるからこそ、引きこもりの本当の原因に関心を持ち続けていると言える。
この問題についてはこの直言曲言でも何回か論究している。引きこもりが世界の青少年問題に例を見ない特徴を持っているのが最初からの疑問だった。『儒教思想』の影響ではないのか?という仮説は最初に斉藤環氏が与えてくれた。私もこの仮説を共有したが、斉藤氏自身が儒教国家と言われる韓国や中国でこの仮説を否定的に検証された。私自身も少なくとも韓国や中国にも引きこもりに類似した青少年現象はないということを確認した。私は、その後、日本特有の経済的発展とその後の沈滞、それに加えての「恥の文化」や「甘えの構造」が原因ではないかと推論し、そこでとどまっている。今の時点で私の推論を覆すような論理的に解明は出てきていないような気がする。しかし、最近では数学の「解」のように明快な答えなど出て来ないのではないかという気持ちに襲われている。そのような明快な答えを求めようとするのは間違いではないかという「迷い」が生じている。
確かに日本における引きこもり問題は、他国の事例に見ないような不可解な現象である。しかし、社会学的な文献は別として、映画や小説などの文芸作品を見れば、少年・少女たちの不可解な言動や悩みはあちこちに見られる。リストカットも理解しがたい行動の一つである。しかし、わが腕を傷つけて血を眺めているような特異行動は他国にもあるらしい。ニュースタート事務局関西を始めたころ、引きこもりに良く似た心理風景をどこかで聞いたことがあると思った。おぼろげな記憶を頼りにある小説を読み直した。それが「ライ麦畑でつかまえて」(原題「キャツチャー・イン・ザ・ライ」)だった。まだ村上春樹の新訳などは出ていなかった。時代も環境や背景も異なった。しかし、大人たちへの不信感や大人の無理解は同じだった。最近作者のサリンジャーが亡くなったことからこの小説を思い出した。この小説を読んだときには引きこもり心理には似ていると思ったが何かを発見したような気にはなれなかった。むしろドリフターズの「誰かさんと誰かさんがむぎばたけ チュッチュッチュ しているいいじゃないか」の歌はこの小説と何か関係があるのかな?ということが気になった。そういえば「夕空晴れて 秋風吹き 月影落ちて 鈴虫啼く」という歌詞の「故郷の空」も同じメロディだった。スコットランド民謡らしい。「ライ麦畑でつかまえて」は確かニューヨーク近郊の風景だったから、なんの関係もないのだろう。そんなことをあれこれ考えていると、ますます日本の引きこもりと「ライ麦畑」などの類似性などどうでもよいことに思えて来た。実際私の記憶によれば「ライ麦畑でつかまえて」も問題は「解決」などせず、突き放されたような状態で終わっていた。引きこもり問題を抱えた青少年を「キャッチ」したいとは思うけれど「引きこもり問題」そのものを「キャッチ」しようと思うのは思い上がりかもしれない。
2010.02.15.