直言曲言 第288回 同根異株
世間の人が考えているよりも私は引きこもりというのはもっと自覚的行為だと思っている。「自覚的」と言っても引きこもっている今現在も「自覚的」かと言うとちょっと違う。最初は理性的に行動しているつもりでも、そのうち自らの行動に絡めとられ、神経症的になり、自らの行動の意味が分からなくなり、脱出口が分からなくなってしまう。人間の行為ってそんなものだ。親や大人たちは、引きこもり自体が最初から常軌を逸した異常行動だと思ってしまい、引きこもりの意味や原因など考えもしない。だから統合失調症やうつ病などに原因を求めてしまい、現状を原因不明な病気のせいだと錯覚するのはまだよいけれど、あたかも原因が分かっているような「発達障害」などとするのはもってのほかだと思っている。尤も「発達障害」などという障害名を発明したのは中途半端な精神科医であるけれど、その医者の診断をうのみにしてしまう本人や本人の家族にも責任がないとは言えない。働けない(いわゆるニート)状態を発達障害のせいにしてしまっている。これでは精神科医と本人の共犯関係だと言われても仕方がない。
引きこもりが現代の異常な競争社会とその社会的ストレスから生み出された異常な心理状態だということには異論がないだろうけれど、その発現がどのくらいの年齢から現われるかについては専門書を見てもあまり言及はない。引きこもりの病理的な特性は対人恐怖、人間不信であり、そのことから友人がいないか友人を拒否している。結果としての「対人スキル」の不在が「仕事に就けない」状態をもたらしている。だから、私たちのもとに相談にやってくる引きこもりの親は、大部分が就業にふさわしい年齢、高卒や高校中退後あるいは大学卒業後も就職しない状態になって本人の引きこもり症状が現れたと思ってやってくる。就職が困難な状況というのはすぐに分かる。バブル崩壊後、就職冬の時代とか就職氷河期と言われる時代があったのはよほど社会に鈍感な親でない限りおぼえているだろう。なぜ若者が就職できにくくなったのかについても、私が具体的な例を挙げて説明すると鮮明に理解するらしい。にもかかわらず、あるいはだからこそかもしれないが、わが子が引きこもりになったのは就職できなかったせいにするらしい。何しろ引きこもりの親たちの関心事は、子どもが就職できるかどうかにほぼ集中している。私は引きこもり相談を初めて12年目になるが、そして就職問題を重視していることは間違いないけれど、対人不信や人間不信が発現しているのはもっと低年齢からだと思っていた。
就職できるか否かが問題となるのは、高校中退後や大学卒業後であるが、そもそも高校中退や小中学校での不登校問題は何を原因として起きるのか?少なくとも就職問題に直面してから起きる問題ではない。私は中学校入学年齢(13才)前後、早い子は11歳くらいから競争社会の過酷さに敏感になり、進路選択に自覚的になる中学時代には世の中の就職難を知ってしまい、それでも進路競争を勝ち抜く道の選択を迫る親たちに反発し、引きこもり始めるのだと思っている。これは十二分に自覚的選択と行為である。もちろんこれは驚くべきほどに早熟な思想と行為であるが、日々金銭的な幸福と将来的安定のみを希求している親たちには分からない。お金を稼ぐことに必死になることがいけないというのではない。私は引きこもりが増加していることの背景を「豊かだけれど出口のない競争社会」と言っている。私(65才)たちが若いころ、日本はまだ貧しかった。高校や大学を出たら就職するのが当たり前だった。高校や大学に進学するだけでも親に大変な経済的負担をかけていた。今、そんな歳になっても親の経済力があるから、すぐに就職しなくても済む。また就職できるような環境ではない。そんな豊かな日本を作ったのは親たちの世代である。高度経済成長という時代を経て世界的にも有数の経済力を誇る日本になった。それは国際的にも国内的にも激しい競争の時代を経て、勝つか負けるかの格差の時代となり、情け容赦もない生き残りゲームの時代となった。
1960年から始まった日本経済の高度成長は10年後の1970年(大阪万国博覧会の年)には一定の成果を上げていた。一方で公害問題など、成長の歪みも頂点近くに達していた。引きこもり問題の見えざる出発点もこの年にあると思う。1970年以降の生まれの人は、まさに豊かになってから生まれているのだから、その父母の世代のように何が何でもより豊かになることを目標になど生きていこうとは思わなかった。現実に手に入れている豊かさは当たり前のようなもので、厳しい競争の苦しさや醜さと引き換えにしなければならないほど貴重なものとは思えない。この時代の転換点で人々の価値観はがらりと変わった。拝金主義ともいえる自分たちの生き方の歪みを親たちは気付かない。親たちの生活が安定したのはせいぜい20年である。衣食住に不安は無くなったけれど、将来のことを考えればまだまだ不安がある。自分たちだけでなく子どもの将来まで考えれば、不安にはきりがない。拝金主義というのが拝金教ともいうべき宗教のレベルに達している。父と母を比較すると、実際にお金を稼ぐ父親の方がこの宗教に盲目的に陥っている確率が高い。母親の方もほとんどこの宗教の随伴者だが、子どもが異教徒であることに気づいて、盲従させようとはしない場合もある。異教徒である。子どもはお金にこだわり、競争にこだわる生き方に耐えられない。親の価値観と子の価値観が正反対の方向を向いている。親と子の、世代間の価値観が違うことはよくある。しかしこれだけ価値観が違っていたり、人生観がすれ違っていたら喧嘩するしかない。袂を分かって別の道を歩むしかない。しかし若者たちは人を恐れ友だちを拒んでいる。一人で道を歩んでいくことすらできない。親もまた、子の考え方を断固として拒否しておきながら、子の独立を認めず、子を養い続け、引きこもりを放置する。
私は「親子双方の気持ちが分かる」と言っているのではない。分かっているのは非和解的な双方の食い違いである。しかも子どもの方は生き方を身につけているわけではない。人を遠ざけているわけだから、身につけられるわけでもない。神経症はますます昂じてしまい、やがて精神のバランスを非可逆的に崩してしまうことにもなりかねない。もうここまでくれば、どちらが正しいかと意地を張っている場合ではないだろう。子を救う決意をした親たちは、私たちのもとを訪れて相談を持ちかけてくれる。いまさら言うまでもないことかもしれないけれど、引きこもりの本人と親とはいかに似ていることか、ほとんど相似形をしている。なのに互いを非難し続けあっている。
2010.02.02.