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NPO法人ニュースタート事務局関西

直言曲言(代表コラム)

直言曲言 第287回 転 職

 私は自慢ではないけれどかなり特異な半生を歩んできたのではないかと思っている。半生と言ったけれど、私も「高齢者」と分類される歳になり、すでに「一生」と言ってもよい人生の大半を終えた。ただし人生の後半は、ごく平凡な生活で、誰からも瞠目されることもなく妻や子や孫たちに囲まれて平和に過ごしている。私が今書こうとしているのは職業選択に関するある種の教訓なのだが、私のような特異な人生が一般的に他人の教訓になるとは思っていない。ただ、引きこもりの人たちは職業に就くことに恐怖感を持っており、無事に職業選択をしてもそれが適職かどうか悩み続けるだろう。そんな時私の体験が一つの参考になるのではないかと思って思い出してみることにする。

 私は何度かこの欄でも触れたことがあるが、貧しい少年時代を過ごした。終戦前の生まれであり、同世代の人には貧困体験を持つ人も多いだろうが、時代や場所、個人的な環境のせいもあり本当は「自慢」でもあるのだが、他人にはない経験をしたと思っている。中学校1年生で不就学児一掃運動というのに引っ掛かり、それまでの小学校にもいかず浮浪児生活をしていたのが、あこがれの学校生活を送れるようになったのだが、それまでは食うや食わずの生活でまだ10歳に満たないころからさまざまな職業を体験した。職業と言ってもそんな歳のころからであるから、正確には職業ではなく、日銭を稼ぐ手段であったにすぎない。思い出せる限り書き連ねると、最初は「乞食」。「乞食」などと書くとたいていの人は「乞食のような生活をしたのだな」と解釈してくれるが、私の場合は文字通りの乞食だ。最もこれは私の職業体験ではなく、我が家の家業であったというべきであろう。父も母もいたのだが、父は病弱で無職、母は子沢山。家もなく、一銭もなく、何日か食べ物も口にしていなかった頃、公園の道端にへたり込んでいると通りすがりの人が小銭を放り込んでくれた。それから、ことさらに哀れそうな姿をしてからの弁当箱を前に置いてみると面白いくらいにお金を恵んでくれることに気付いた。その日は久しぶりに一家で銀シャリを食べて、父はお酒にありついた。乞食をするには乳飲み子を抱えた母親が良いだろうと思うが、あにはからんや小学校高学年で大柄な私の方が実入りが良かった。難波や梅田の地下道、戎橋の橋の上、乞食の適地も発見した。もちろん乞食の敵は商売敵の同業者と、巡回に来る警察官、もう一つお金をくれるわけでもないのに身の上話を聞きに来るお節介者。乞食は「三日やったらやめられない」と言うが、元でいらずでぼろい商売である。なぜ乞食をやめてしまったのかわからないが、恐らく父と母が「物心の付いている長男にいつまでもこんなことをやらせるわけにはいかない」と私のプライドが傷つくことを心配してくれたのではないか?私はとっくに物心は付いていたが、プライドが傷つくどころか傷ついたふりをすれば乞食の収入が増えると気付いていた。

 次にやったのは「パチンコ」の玉拾い。昭和20年代の終わりころ、街にはパチンコ屋があふれていた。当時のパチンコはまだ手うちだったが的中すると15個の当たり玉がじゃらじゃらと流れ出る。1個や2個通路にこぼれても客は気にしない。その玉を拾うのだ。あっという間に2〜30個はたまる。たいていは、それを元手に自分でもはじいてみる。的中しなくても、元手は拾った玉。もう一度拾いなおせばよいだけ。半日それを繰り返していれば小箱に1杯くらいの玉はたまる。子どもでは換金できないので店内に待機している父親に渡して換金すれば500円くらいのお金になった。店員に顔を覚えられると追い出されるので同じ店に何度も行けない。大阪市内の大きなパチンコ店にはほとんど行きつくした。

 一家総出でやった仕事もある。化け物屋敷への住み込みである。筵掛けの見世物小屋であるが家族が4つのパートに別れて入場客を驚かす役である。私の仕事は墓場のシーン。客が通りかかると左手のひもを引くと墓石がわれる。右手を引くと髑髏が飛び出す。慣れてくると怖くも恐ろしくもない仕掛けだが、相手は怖がりに来ているのだからあほらしいくらいに怖がってくれた。日用品の行商もやった。11歳で小学校6年生くらいの歳だが「学生アルバイト」と称して結核の療養所に日用品を売りに行った。今なら100円均一だが、当時は10円均一。それを35円〜50円で売るのだが、結核療養所は人里離れた山里にあり、今は郊外のニュータウンになっているのだが、入院患者は人恋しい思いがあるのか呼び止めてよく買ってくれた。

 中学校に入るまでにやった仕事は他にもいくつもある。仕事と言っても産業分類上の「職業」と認められているものではない。見つかってもせいぜい追い払われるものだが、ほとんどが違法なものだった。そもそも義務教育を受けずに働くなど認められてはいなかった。

 私の自慢のひとつは小学校も大学も中退したことだが、大学では在学中に株式会社を設立して社長になった。れっきとした出版社(のつもり)であるが赤字で2年ほどで投げ出した。次に設立したのは企画会社。私はこれまで4つの株式会社、一つの協同組合、一つのNPOを設立しいずれも社長や代表者を名乗ってきたが、私自身の意識としては「転職」したという意識はない。一応会社や団体名は異なるし営業目標も異なるのだが、組織や他人に仕えたという意識はない。私は10年に一度株式会社を設立した。10年に一度発奮する癖がある。それまでの仕事が嫌になるわけではないが、何か新しいことをやりたくなる。ただ、振り返ってみれば最初の会社から40年間に多様なことをやってきたような気がする。企画会社、広告会社(コピーライター)、マーケティング調査、コンサルティング、シンクタンク。最初から好きであったり、確信を持ってはじめたわけではないが、やっているうちに好きになり、得意になって、自分では『天職』ではないかと思いこんでいた。『天職』なんて探して見つかるものではない。一生懸命やっているうちに好きになり、得意になる。そんなものではないか。とにかく何でもよいからやってみればよい。いやならやめてもよい。転職も自由だ。そんな中で見つける、出会うのが天職だと思う。

 

2010.1.20.