直言曲言 第281回 教 育
引きこもりの青年を見ていて最大の問題点と思える「対人恐怖」や「人間不信」はとっくに取れているというのに、歪んだ社会観ともいうべき考え方が染み付いていてまともな社会生活が送れない人がいる。あれこれと考えてみるが、そのような考え方をする切っ掛けや事件があったとは思えない。結局、親や学校による長い時間をかけての「教育」のせいだとしか思えない。教育とはよりよい社会生活を送れるためのトレーニングであるのだが、一歩間違えればマイナスの効果をもたらしてしまうこともある。何気なく新聞の投書欄を見ていて驚いた。11月10日付朝日新聞の「声」欄である。投書欄は日常的な出来事について、一般的な記事や社説では気づかない見方について読者が独自の視点で意見を述べる場である。意見が正当であるかどうかは別として、あるいは政治的に偏向しているかどうかも別として、新聞記者や論説委員には気づかなかった独自の視点というものが投稿記事の価値である。
先の衆議院総選挙で自民党政権は交代した。私は民主党支持者ではないが政権交代は「良いことだった」と思っている。自民党支持者の中には「残念だ」と思っている人もいるだろう。投稿欄だからといって遠慮することはない。しかし、子どもの意見にかこつけて、しかも捏造したと思える子どもの意見にかこつけて政策批判をするのはルール違反だと思えるし、投書者が中学校の先生であるのは先生の資格にも悖(もと)る行為であると思う。
国語の時間に「鳩山政権」の政策について意見を書かせたという。最も反対が多かったのは「子ども手当はなくしてほしい」だったそうだ。「88人が様々な意見を提示してくれた」中の36名と書いてあり、先生が作文を書かせたというのだから2クラスの中でのことだろう。かなりの高率である。しかもその理由の中で最大のものは「親が何に使ってしまうかわからない」からだというのだ。私はこの理由を見て不思議に感じた。この理由を挙げた人が何名いたのかは書いていない。しかし36名中最大というのだから1人や2人ではないのだろう。少なくとも投稿者はそう思わせようとして描いている。「親が勝手に使ってしまう」と考えるような人もいないとは限らない。子どもとて同様である。「しかし36名中最大」だとはアンケートなら意図的に配置した選択肢のせいだろうし、作文で多数の人がそのことを書くなんて、事前に何らかの形で示唆されたとしか思えない。
あらかじめ意図的に仕組まれた作文であるなら当然かもしれないが次に多かったのは「公立高校の授業料無償化に反対」で24人だったそうである。理由は「中学を卒業したらすぐ働きたい人や職人に弟子入りしたい人がいるかも」「誰もが高校へ行きたがるという考えを前提にしているのがおかしい」というものである。社会の実情や中学生の実態について知らなければ中学生としてありうる意見かもしれないが、本当にこんな意見を言う中学生がいるとは思えない。「中学を卒業したらすぐ働きたい」や「職人に弟子入りしたい」というのが本人の意向なら感心してしまうのだが、自分は高校進学(平成19年進学率統計97.9%)を前提にしておきながら他人が別の選択をすると想定しているのはこの中学生が無責任なのか、投書者の先生自身が実情と無縁な作文をおまとめになったのかのいずれかだろう。
「誰もが高校へ行きたがる」とは思っていないが、現実に高校へ行っているのは先の進学率統計の通りであり、さらに大学に行きたがり、あるいは親が行かせたがっているのが現実である。「誰もが高校に行きたがるという考え」を前提にしないというのは願望なのだろうか、「行きたがるという考え」を持たないというのは中学生自身の想像なのだろうか。願望にしろ、想像にしろ、高校進学をめぐる現実とはかけ離れすぎている。これも指導者の作為のない作文とは思えないのである。仮に「行きたがらない」とすれば「なぜだろう?」ということにはまったく想像力が及んでいないのである。またこのように考えるとすればなぜ「公立高校授業料無償化」になぜ「反対」なのか全く論理的でない。
私は「子ども手当はなくしてほしい」「公立高校無償化に反対」という意見に怒っているのではない。例えば自民党はこのような政策は行ってこなかったし、自民党支持者にはこのような政策に反対する人も多いかもしれない。例えば財源の問題や政策の優先順位として民主党の政策に反対するかもしれない。アンチ自民党である私にしても子ども手当については所得制限を付けるとか、公立高校無償化については「私立についても補助金の増額を」という意見はありうる。この先生の投稿は反対理由やその反対意見の集め方に無理がありすぎる。朝日新聞だから「左」の意見を尊重しろなどとは思わない。「左」であれ「右」であれ、もっともらしい論理性のある意見なら投稿として掲載されて当然だと思う。この投稿には当然のごとく次のような一文が付け加えられている。「子供たちは親や社会を冷静に見ている。閉塞感あふれる世の中で、人生にはもっと様々な選択肢があるはずだ。」子ども達の意見を紹介してこのようなコメントを付け加えるのはある意味での常とう手段でもあり、「素直な子どもたちは」このように「言いたいのかもしれない」とまるで大人たちの意見や政権選択が「間違っていた」と言わんばかりである。
この先生は意図的ではなくこのような間違いを犯してしまっているのかもしれない。日ごろからの自分の教え方の誤りに気付かず、子どもたちの考え方に勝手に納得してしまっているのかもしれない。かつて日教組強大なりし時も左翼偏向教師についてこのような批判があった。私も中学生のころ真面目なはずの「熱血教師」にいわれのないカンニングを指摘されたことがある。浮浪児だった私が最初の試験で最高得点を獲得した時だった。「できるはずがない」と思っていた教師の思い込みであった。私は怒りがこみ上げるより前に先生や大人というものに対する不信感が募った。引きこもりの病理の中で最大のものは人間不信である。子どもたちが純真な気持ちでいられるときには「人間不信」の兆候など見られない。子どもたちが大人になる準備を始めて、人間との付き合いを考え始めるころ、無自覚にも信頼感を裏切る大人の言動によって傷つけられ,人間不信の芽が芽生え始めるのではないか。先生や親という立場に安住した教育という名のもとに行われる嘘のなんと罪深いものであることか。
2009.11.16.