直言曲言 第273回 メロス
私が初めて太宰治の小説を読んで感動したのは高校2年の初めである。青春文学の代表的作家と言われているので、高校2年というのは少し遅すぎたのかもしれない。尤も最初に読んだのはそれより1年少し前、高校1年か中学3年の国語の教科書に出ていた『走れメロス』という小説であった。この時は大した感動もせずむしろこの作家は倫理的なことを書いているが「嘘つき」だなあと思った。ご存じの方も多いだろうが、処刑されるメロスの身代わりになった親友のために期限までに刑場に戻らなければならないメロスの心の葛藤を描いた話であり、処刑しようとした王様の改心で「めでたしめでたし」で終わるおとぎ話である。
「嘘つき」だと思った。自分が身代わりになって処刑されるというのに、友達を救うために必死になって刑場に向かって走るなんて。「自分だったらあり得ない」と思った。「偽善」とか「欺瞞的」という概念をさしはさむまでもなく、「小説家というのは嘘つきだ」と思った。そのくらい私自身「友情」だとか「人間」を信用していなかった。極貧の浮浪児生活を抜け出して、何とか生き延びていこうという「上昇志向」だけが私を占拠していた。それ以来「太宰治」という名前に興味も持たなかった。高校2年の初めころふとした拍子で太宰の小説を読んだ。題名も小説の内容も忘れた。「生きていてごめんなさい」というセリフに衝撃を受けた。「あっ」と思った。「太宰が俺に謝っている」と思った。「嘘をついてごめんなさい」と誤まっていると思った。それ以来、太宰の小説を読み続けた。既に太宰治が数年前に女性と心中してしまった作家だと知っていた。「生きていてごめんなさい」だけでなく「恥多い人生でした」などと小説のいたるところで太宰の本音としか思えない告白がちりばめられていた。「なんでこんなに本音ばかりが言えるのだ」と思った。「この人はもう『死』を覚悟しているのだ」と思った。それ以来太宰の本を必死になって探して読んだ。どこかにまだ彼が言い残した言葉が隠されていて、彼はその言葉を吐いて死んだのだ。その言葉は何なのだ。当時の私はその言葉を知りたい一念だった。「人間失格」「斜陽」「津軽」「グッドバイ」…あっという間に見つけられる小説は読んでしまい、全集などに収録されているエッセイの類も読みつくした。太宰治を「読み尽した」という思いで一段落したところで高校3年生になっていた。高校3年になってもすぐに受験勉強を始めたわけではないが何となく人生の暗い部分だけを見つめていてはいけないという気分にはなっていた。ずっと後になってから分かったことだが「太宰を読み尽した」と思ったのは誤解だった。今ではインターネットなどで検索すれば「太宰治の著作」など簡単にリストアップできるが、当時の私にとって「太宰の小説」を探すのは高校の図書館で開架式の棚を探すほか、限られた方法しか見つからなかった。私が「読み尽した」と思ったのは当時の進学高校の図書館の司書がギリギリ許容してくれた数冊にしか過ぎなかったのだ。いずれにせよそのせいで私の「太宰熱」は適当なところでストップがかかった。しかし、一度味をしめた破滅型の私小説の味はなかなか忘れられなかった。昨今の芸能人の覚せい剤中毒のように、太宰の小説がないとすれば「似たようなものはないか」とむさぼり読んだ。同じ無頼派とされる坂口安吾、太宰の墓前で自殺したといわれる田中英光、太宰との脈絡などあるかどうかも分からぬ梶井基次郎、中島敦…。なにしろ誰かに文学史的な指導を受けたわけではない。高校生が「乱読」する中で見つけた太宰と共通する陰鬱な雰囲気というか「死のにおい」を嗅ぎ分けて、その匂いを鼻孔いっぱいに吸い込みたくて同じようにむさぼり読んだ。その割には私は堕落とも自殺とも無縁に大学に進んだ。
運よく浪人もせずに大学に進んだ私は、結局高校時代も同じだったが上昇志向の塊だった。大学に入ってしばらく経った頃は、学生運動思想にふれて、左傾化した上昇志向だった。その頃また太宰治の小説に触れる機会があったが、読み始めてすぐに「これは危険な書物だ」と直感し、すぐにその本を閉じてしまった。高校時代にあれほど耽溺するほど読んだが、いや耽溺するほど読んだがこそ、危険な書物のにおいは嗅ぎ分けられるようになっていた。あれから、四十数年、太宰治の小説など手に取ったこともない。
太宰治がなぜ「青春文学」と言われるのだろうか?自分の人間性に疑いの目を向けるのが「青春」なのだろうか?人は誰も生きていくことの欲望に目覚め、その苦闘の中で、他人を騙し、自分自身を裏切り、またそのことに傷ついて、懺悔し、絶望してしまうのだろうか?引きこもりの特徴と思われる「人間不信」も人間を信用しようと思い、それに裏切られたことによる反動的な心の作用だろう。最初から人間など信用しなければ人間不信に陥ることもない。そう考えれば「人間不信」に陥る人の心の流れも愛おしい。最初から人間など信用していず、従って殊更に人間不信になりもしない人というのは空々しいのではないか。そう考えれば「人間不信」から我々の呼びかけにも応えてくれない引きこもりも、どこかで人間を信じる気持ちと、信じられないという思いの葛藤の中で生きているのだ。そのような「心の葛藤」こそ青春の文学なのだ。そのような呼びかけを、安易な打算で止めてしまってはならない。「人間不信」は人間心理の病的な状態には違いない。だからと言ってそれを精神病だと決めつけて薬で治療しようとしてはならない。薬で症状は改善されるかもしれない。症状は改善してもそれは自力で心の葛藤を克服する機会を永遠に奪ってしまうのではなかろうか。残念ながら人間の人生は「永遠」ではない。また「心の葛藤」と永遠に戦い続けるほど人間の精神はタフでもない。太宰自身が友情というもののありようを信じて「メロス」に対して「走れ」「走りつづけよ」と叫び続けたのかもしれない。しかし心の中の叫びとは裏腹に、彼自身が虚飾にまみれ、他人を裏切り、自分自身を裏切り人生のつじつまが合わなくなったのかもしれない。
「池水は 濁りににごり 藤なみの 影もうつらず 雨ふりしきる」現実の死の経過は知らないが、玉川上水の濁流に身を投げた太宰の心の混濁はこの辞世に余すところなくあらわされているのではないか。「選ばれてあることの恍惚と不安」『晩年』にあるこの言葉はヴェルレーヌの詩文であるが誰に「選ばれた」かは明らかであろう。「神」に救済を願ってはいけない。「心の葛藤」から逃げだそうとする太宰の苦悩は分かるが、「恍惚と不安」とは覚せい剤中毒者特有の感覚ではないか。のりぴー事件に触発されたのではないが苦しみから逃げだそうとしてはいけない。
2009.09.02.