直言曲言 第269回 風 景
今さらこんなことを確認するまでもないかもしれない。「引きこもりの解決はむずかしい」なんて。でもこんなことも言える。「引きこもりって意外と簡単に解決する。」そうなのです。明らかに昨日まで引きこもりだった若者が、誰も苦労していないのにすっきりと元気になってしまうこともあるのです。あるとき引きこもっていることの不毛さに本人自身が気づいて、気持ちを切り替えてしまえば、まるで薄皮をはがしてしまったように引きこもりは跡形もなく消えてしまいます。本人が自然に気付いて、インターネットで調べて鍋の会に参加してくれるケースや、親が引きこもり相談に来てくれたケースでもそれを本人に伝えた瞬間に本人が救われるチャンスだと自覚してしまうケースもあります。
一方で、多くはこちらのケースだと思うのですが、親が長年苦労しても、ニュースタート事務局関西のNSPが何回訪問しても心を開いてくれず、どうやって解決したらよいものか途方に暮れてしまうケースもあります。私は「引きこもりは病気ではない」と言い続けているものですから、こうしたコミュニケーションの通じない相手でも、精神病であると断定して、コミュニケーションに絶望してしまうことはありません。実は、私たちの経験が浅い時には、何回訪問しても反応がなかったりして、絶望してしまいそうなことも何回もあったのですが、そんな時にも私たちのNSPは辛抱強く訪問を続けてくれて、ある時本人と口げんかをするほど仲良くなり、その次には鍋の会開催場所である摂津富田の駅で待ち合わせをしたりしているのです。
それでもこれからわが子の引きこもりを相談しようと思っている人に安易な期待を抱かせてはならない。正直にお話しましょう。「引きこもりは病気ではない」と主張しているけれど、すべての引きこもりが健全で、第三者の支援を求めればすぐに元気になれるというものではありません。わが子の引きこもりに疲れ果てた親たちは、精神障害を疑い、精神病院や心療内科の診察を受けます。先日相談を受けたご夫婦は、何と十数回も病院の門をくぐっておられる。もちろん、最初は精神病の所見は見られないということだったそうですが、納得はしておられず、別の病院での診察を繰り返されたのです。最初から精神病を疑っておられたのかというとそうではなく、明確な治療診断を求めておられただけだそうです。しかし、私の眼からすれば「治療」方針を求めるということは、病気を前提にしており、「精神病である」と診断されることを求めて病院めぐりをしておられたとしか思えません。長い引きこもり相談歴の中では、精神病院での入院歴や薬物の投与歴を重ねる中で、本物の精神病になったと思われるケースも少なくありません。統合失調症(旧精神分裂病)などの重大な精神病でなくても、何らかの精神障害の可能性を指摘されている例は多い。一番事例が多くて反論のしにくいのが「うつ病」です。うつ病というのはり患例が多くて、
本人にうつ的症状があるのは事実ですから、反論のしようがありません。原因が何であるかの指摘もなければうつのストレスを除去しようもありません。昔コント55号のコントで舞台上で走り回った坂上さんが疲れきって椅子に座ると、白衣のお医者さんの欽ちゃんが現れて診察しおもむろに「過労です」と宣言するようなおかしさがあります。最近ではあまり言われなくなったが境界性人格障害(その他無数の○○性人格障害)、不安神経症(その他多くの○○性神経症)、学習障害や多動性障害など様々な精神障害的な名称がつけられ、素人である私たちには重大な精神病であるのか単なる一時的なノイローゼの類なのか見分けがつかない。最近私たちを悩ますのが「発達障害」なる病名である。未熟児であったり、胎児性の障害児というのは私たちもよく見かけることがある。「発達障害」というものも発育過程で何らかの障害にぶつかり、知的機能に成長不良現象が現れるものかと思っていた。
「発達障害」と診断されたことのある若者はざらに見かける。鍋の会に常連参加している若者でも「僕は発達障害です」と自称する若者は多い。見かけはもちろん、言動に気を付けていても何が発達障害なのか分からない。本人に聞いてみてもはっきりとした答えはない。ニュースタート事務局関西では姉妹法人であるNPO法人日本スローワーク協会と合同会議を行っている。その会議の席上「発達障害について勉強しよう」と提起された。ある人たちは精神科医が参加する講演会やシンポジウムを聞きに行った。報告を聞いたがその参加者もあやふやな印象だったらしく、病状や治療法ははっきりしない。ある女性は新刊書を買い、図書館でも何冊かの書籍を借りてきた。その女性の報告を聞いて感心したのは「そこに何が書いてあった」と報告するのではなく、彼女自身の10年間の経験を踏まえて納得する事例と納得できない事例を分類してくれたことであった。
少し旧聞に属するのだが「ため塾」を主宰する工藤定次さんと精神科医斎藤環さんの対談「激論・引きこもり」という書籍が発刊された。同書の中で両氏は様々な点で意見の一致をみるのだが、どうしても意見の合わない点がある。工藤氏は斎藤氏に対して「見てきたものが違うのではないか?」というのだが、ここでは私は工藤氏に共感した。現実に、斎藤氏は患者として医者を訪ねてきた人にしかあっていず、工藤氏は引きこもっている人にも訪問して会っているという違いがあった。私は若いころ、神経症になったことがあって、見えるはずもない風景を妄想として見えたことがある。大学入学当時で経済的に困窮していた。学費を稼ごうとして無理なアルバイトを続けて疲労していた。おまけに家庭教師先で難しい物理の問題を出され、神経が混乱し、あり得ないことを妄想した。もちろん、その当時は妄想であることに気がつかなかった。
発達障害であるかどうかは分からないが、街を歩いていても通りすがる人々の顔に表情がないと思える人がいるそうだ。おそらく、歩いている人だけでなく、出会う人のすべてに表情がないのだろう。表情がなかったり、感情がくみ取れない人がいれば、感情の交流をすることができない。あるいは人がみな無表情な仮面を付けていると思えることがある。こんなことが対人恐怖や人間不信のきっかけになるのかもしれない。私たちは、自分が見ているのと同じように他人も同じ風景を見ていると思いがちである。ところがちょっとした精神状態や体調の狂いにより風景が色を失っていたり、雑踏にいても音が聞こえて来なかったり、そんな描写を文学作品に見ることがある。あくまでも自身の健全性をのみ信じる人はそんな風景を見逃しても良いのだろうが、この世にはあなたの見たことのない風景もあるのだという想像力だけは残しておいてほしい。
2009.07.22.