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NPO法人ニュースタート事務局関西

直言曲言(代表コラム)

直言曲言 第265回 類と個

 親は子が生まれたときまず手足の指が10本ずつあるか確かめる。それでひと安心「五体満足」というわけである。それでも完全に安心できるというわけではない。1ヶ月検診、3ヶ月検診、1歳児検診と進んでいけばどんな病気が見つかるか分からない。心臓や呼吸器気管に異常はないか、ダウン症などの心配はないか、自閉症などの兆候はないか。他人から見れば「心配し過ぎ」とも見えるが、確率は低くともそうした病気もあるのだから心配するのも当然かもしれない。病気やアレルギー症状などの心配がなく、最初のお誕生日を迎える頃になると、今度は、親はやたらに強気で自信を持ち始める。この子は可愛い。この子は聡明だ。健康だ。音感に優れているのではないか。この程度の感想を持つのは普通だろうが。数学の天才ではないか。言葉に特に鋭敏ではないか、などとなると「やや親バカ」と言われるかもしれない。子どもの将来に期待を持つのは良いのだが、近頃は「英才教育」を始める人も多いと聞く。英才教育が悪いわけではないが、度が過ぎると悪影響も目立つ。ピアノであれ、ヴァイオリンであれ幼いころから始めれば上達するのも早いだろうが、3歳なり5歳のときにはそれなりに学ぶべきことはある。それを学ばせずにおけいこごとを続けさせるのだから、普通の子の遊びや、何よりも友達付き合いができない。ほどほどのおけいこごとなら良いが、それが原因で大人になっても対人恐怖症から抜け出せないなどというのは悲惨だろう。親が子に期待を持つのは大いに結構だが、昔から「十で神童十五で才子、二十歳(はたち)過ぎればただの人」とよく言う。子どもの頃の天才ぶりはとかく過剰に見られがちなようである。期待過剰が本人のプレッシャーになり「五つで麒麟児十で天才、十五過ぎれば引きこもり」という例がよくあるのでご用心。

 しかしながら子どもの才能に期待を持つのは当然だし、子どももその期待に応えようと努力するのは良い。ある意味で子どもの長所を見つけ、それを励ますのはより良い成長を促すための必須の手段ともいえよう。しかしこの時代、過剰な競争と上昇志向の中で努力や奮闘というものの方向性が見失われがちである。私は引きこもりの面談の中で競争社会や上昇志向について触れるので、まるで競争や上昇のための努力を否定しているかのように思われがちであるがそうではない。資本主義社会やそうでなくても、競争や上昇志向を否定しては個人の能力や社会の発展は見込めないであろう。ただ、その競争や上昇志向が他人を蹴落としたり己の幸福の追求ばかりを目的としておこなわれるのに不満なのである。
また競争とは勝ったり負けたりするものである。自分は常勝でなければならないとか、負けると必要以上に落ち込むというのはどこか歪んでいると思われるのである。

 教育とはそもそも幸福になる手段を学ばせる方法である。そのために知識や技術を身に着けさせようとするが、いつの間にか幸福になることは順位を上げ、他人の幸福を奪い取ることであるかのように変わってしまったのであろうか。現実の社会がこれだけ野放図な市場分捕り合戦になってしまっているのだから、学校や教職者に「何を教えているのか」の自覚がなくても仕方がないのだろうか。しかしそれでも子どもたちは社会の流れに流されているだけではいけないことに気づき、いつからか己(個)の幸福の追求だけでは本当の幸福はやってこないことに気付き「類」としての幸福の実現について考え始めるのである。それは小学生時代に遊んでいたドッジボールが集団でしか成り立たない競技であるのに究極的には個人技を競う競技であることに気付き、小学生の自分にはバットを振り回してホームランばかり狙っていた野球で中学生になると急にチームプレーに目覚めるようになるのに似ている。尤も、高校生になっても社会人になってもエースで4番バッターでなければ野球をやる意味が分からないという大人が多いのも事実である。

 野球のシーズン優勝は完封勝利やホームランの数で競うのではない。チームの勝利は総合力による勝ち数で決める。そのためには個人の記録は二の次である。そんなことは近代野球などという概念を持ち出さなくても、野球というゲームが始まった時から決まっている。サッカーにしても、ハットトリックを何回やってもチーム勝利に結びつかなければ無意味に等しい。尤もこれもハットトリックを達成すればほとんど勝利は間違いないだろうし、ハットトリックなどというものチームメートのアシストなしで実現できるものではない。

 さて類と個という話、スポーツのチームプレイになぞらえるというのもストレートすぎるがあまりにも個人プレイに走りすぎている例が多すぎるのでちょうど良いかもしれない。個は類に属しているのであるから類を超えることはできない。個としての成長は望ましいのだがそればかりに熱心になるあまり個が類を通り越して成長することを目標にしてしまう。これも一般論だが個人記録と団体記録、日本新記録と世界新記録のようなものだ。一般的に日本新記録に及ばないのに世界新記録を目指すのは無理である。逆にいえばより広い類としての記録があるから個の記録も伸びる可能性がある。個的な成長は類的な成長に準じる。個的な幸福も類的幸福に準じる。それは個的な存在は類的な存在に属する問題であるからだ。個的な幸福を願うことは悪いことではないが、そのために他の幸福を犠牲にしても良いと考えるのを利己主義という。

 資本主義や自由主義も利己主義の変形だと思うがこの利己主義が一般化し自分の家族だけ、民族だけ、わが国家だけという一国主義的幸福追求が目に余るようになってきている。交通機関やマスメディアが発達して隣国や隣の民族の存在に目をふさぐことなど出来なくなっているはずなのに人々はますます狭量になってきているような気がする。隣人の幸福が自分の不幸の量を増やすのならともかく、なぜ隣人の幸福を敵視しなければならないのか。このような幸福観まで子どものころからの教育によって植えつけられてしまうのだろうか。個の延長が類であるように己はより広い類の一部であることを自覚すれば家族を愛するように他人を愛することができるだろう。類を個と同じように愛するためには類の中に自分との共通性を見つけることではないか。友人の中に自分と似ている点、同じレースを戦う仲間にも自分との共通点、貧しさの中で核開発を行おうとする国にもどこかの国との類似性を、人間だけではない。動物たちも命を守って必死に生きていこうとする健気さはいとしい。そうすれば自己愛と対人関係の分裂や矛盾に悩むことなどなく、おおらかに類と個の境界を自由に越境できるだろうに。

2009.06.10.