直言曲言 第259回 時代
乳幼児・少年・青年・壮年・中高年・老年期。人間の一生はたとえばこのように分類できるだろうか。私などついこの間まで「青年」のつもりでいたのだが、60歳になってそろそろ青年卒業かと思う頃脳梗塞になり、身体障害者にまで認定された。青年から一挙に老人になった。気持ちの上では老成などしたつもりはないのだが、何しろ身体の自由が利かない。今年はついに高齢者の仲間入りをして、文字通り晩年に差し掛かっている。振り返ってわが人生を幾つかの時代に区切ってみようと思うのだが、どうもその境目が定かではない。便宜的には70年代、80年代と10年ごとに自分の関心事を変えてきたのだが、今となってはどうでもよいことのようだ。1944年(昭和19年)生まれの私としては圧倒的に「昭和生まれ」というのがアイデンティティ(自分らしさ)のような気がする。
平成も21年になって昭和生まれの若者たちが、平成生まれの青年に驚いて見せる時代になった。昭和生まれでも末年の人はまだ22才以下。そんな人に「同時代人」と言ってみても通用するだろうか。私は一体何人なのだろうか。最初は周囲の大人と区別する為に「戦後派」だと思った。しかし厳密に区別すると私は戦中生まれだった。成年期に周囲の人との違いを意識すると安保闘争を経験していないという意味で「安後派」であった。全共闘運動がおこり、それまでの学生運動とは異質だという意味で「全共闘派」と名乗るのが最もしっくりくると思ったこともあった。しかし私は長く留年しており全共闘派の中心である団塊の世代とは2〜3年の年代差がある。時間がたち、全共闘も知らない若い世代から「全共闘世代」だと思われても反論する気もなくなったが、かえって全共闘に違和感を抱くようになった。
西暦で考えれば1944年生まれ。まさに20世紀の中葉。しかし西暦の100年間というのは人の生きた時代を区分するにはあまりにも茫洋としている。むしろ「戦中生まれ」の方が限定されたイメージがある。20世紀というのは社会主義への挑戦の時代。私たちの生まれたのは戦後の貧しい時代。その克服の為に社会主義革命が夢想された。社会主義はすでに実現された理想のシステムのはずであった。1980年代の末には足取りが怪しくなった。ソビエトロシアの共産党がふらつき、東西ドイツの壁が壊され社会主義のモデルが次々に退場した。考えてみれば理想のはずのモデルもこの世に存在したのはわずかに70年。生まれてすぐに壊れて消えたシャボン玉だったのである。むろん社会主義の敵対物であった資本主義が勝利したのではなかった。2008年、アメリカの金融恐慌は世界に波及し、ひとつの経済システムが世界を支配し続けることの困難性を示した。
私は1991年の夏ロシア東端のウラジオストックという街を訪問した。前年にソ連共産党が崩壊したばかりで、その都市は重要な軍港だったので外国人旅行客には前年まで開放されていなかった。ロシアという国は初めての訪問地であったが、前年に共産党が一党支配を放棄しただけでこれだけ変わってしまった国を初めてみた。それまでのソ連を知っていたわけではないが、新聞や雑誌を通じて知っていたソ連とまるで違う。社会主義が事実上崩壊した国はヴェトナムや中国など見たことがあるが、こちらは崩壊したものを「崩壊していない」と言いくるめようとする狡猾さを持っていた。ロシアの場合、崩壊してしまったものを呆然と見送るような脱力感を街じゅうから感じた。ルーブルはほぼ無価値になり、外国人観光客に対しては無条件降伏のような従順さであった。ロシアの変化は政治的な体制の変化によるものであったが、人々の価値観は案外簡単に変化してしまうものだなということをこの時知った。
私の父は1914年(大正3年)生まれ。1975年に死亡した。今思うと若死にだったが、まさに20世紀の人であった。父は生前人工衛星が空を飛ぶのは知っていたが、コンピュータはほぼ知らなかった。ましてやパソコンがこんなに普及するなど夢想だにしていないだろう。私にしてもテレビ電話などというものは、テレビの多元中継などというものがあったのだから、劇場や会議室のようなところではいずれ実現すると思ったが、今のように携帯電話で簡単に遠隔地の動画を見ながら人と話ができるようになるとは思わなかった。政治的な体制や科学技術の変化がこれほど激しいと人々の価値観も激しく変化するだろう。
ニュースタート事務局(関西)は11年前から引きこもり(からの脱却)を支援している。多くの親がわが子の引きこもりに困惑して救いを求めてくるのは事実だが、引きこもりは果たして非行から更生させるようにどうしても治療しなければいけないような不都合な症状だろうか。親は悩んだ末に思いあまって事務局に頼んでくる。鍋の会やレンタルお姉さん(NSP)・共同生活寮などを通じて引きこもりだった若者が元気になっていく。しかし中にはまるで引きこもりにしがみつくように我々の働きかけを拒み続ける若者もいる。親の望みではあるのだが、残念ながら我々には善行を施している快感などない。社会主義革命について思った「歴史的必然」という意識もない。
20世紀日本は幸せを追求するつもりで拝金主義とその競争に明け暮れた。1980年代にその爛熟期に拝金主義と対人恐怖という神経症を合併症として発生した若者に、どうしても救わなければならないような普遍性などない。今明確に資本主義後遺症として再び勢いを取り戻した引きこもりをどうしても回復させようということは資本主義の延命治療をしようとしているようなものではないか。私がかって情熱を燃やし、命をかけた友までいる社会主義革命ほどの価値はあるまい。時代が変わっていけば価値観も変わる。もうしばらくもすれば、私たちは20世紀の人として過去の遺物扱いをされるだろう。父がパソコンも知らない時代に生きたとして、その幸福感にどれほどの違いがあっただろう。日本はこれからも豊かになっていくだろう。しかし人々のプライドや欲望を養うほどの仕事は残されていないだろう。
大正時代から昭和の初めを生きた宮沢賢治という私の大嫌いな嘘つき詩人がいる。「雨ニモ負ケズ」という詩の中で宮沢賢治は「そういう人に私はなりたい」と言った。「誉メラレモセズ 苦ニモサレズ サウイフヒトニ」あなたはなりつつある。人間や社会に対する無関心の中で自分の幸福感だけを追求していくなら人々はあなたに決して関心を持たないだろう。許容はされ続けるかも知れない。
2009.04.13.