直言曲言 第256回 臆 病
ヒトは人と出会うことにより成長していく。これは間違いなさそうだが、どうやって人に出会っていくのだろうか。一説によると人は一生のうちに約3万人に出会うそうだ。平均寿命を約80年とすれば、1年間に平均約400人弱ということになる。小学校・中学校・高校の12年間はそれほど交際範囲が広くないだろう。同じクラスの友人は約40人。毎年クラス替えが行われるとしてその約半数が新しく知りあう友人として20人。12年間で240人に過ぎない。クラス以外にも友人はいるだろうが、その倍としても480人。高校を卒業して社会人になるか大学生になれば行動範囲は大幅に広がるが残り、約70年の人生では小・中・高時代に比べて1年に10倍以上の人と出会うことになる。電車の駅員にでもなり毎日改札口を通る無数の人と出会うような場合を別として、出会った人と名乗り合い、知り合うとすれば、年間400人、毎日1人以上の人と出会うというのは大変なことだ。
3万人以上の人と出会うということは、ほとんど偶然に、予測もしない人と出会うということだ。高校までの12年間、ほとんど毎日同じような生活の繰り返し。いわばルーティンな生活では、新しい人と出会う可能性は極めて低いと言える。見知らぬ人と出会うということはリスクのあることだ。乱暴な人もいるだろうし誰でもよいから殺したいというような人もいるかもしれない。もちろん偉大な人や、将来愛し合う、未来の伴侶に出会うかもしれない。たとえば引きこもって家から一歩も出なければ、他人に危害を加えられる心配もない代わり、愛する人にも巡り合えず、もし引きこもり続けていれば、お金があるかないかにかかわらず、孤独のままで、やがて親や兄弟も死に絶え、一人ぽっちで生きて行かなければならない。そんな恐ろしいことに耐えていけるはずはない。私は引きこもり支援をやっていて、引きこもりの人やその親から様々な相談を受ける。いろんな会合や講演会などでもいろんなことを話す。この「直言曲言」でも既に250回を超え、「100万言を費やす」と言っても大げさではなくなって来た。いつまでたっても引きこもりはなくならないので「虚しさ」を感じることはあるが、「絶望」することはない。「一人ぽっちで生きていく」そんな恐ろしいことに耐えていけるはずはない。と信じているからであり、その人が本当に絶望して死んでしまって、冷たくなってしまわない限り、こつこつと胸を叩き続けるつもりだ。
親はわが子ができるだけ安全で幸せな人生を歩んで行って欲しいと願っているだろうから、子どもの行く道の「平安」を祈っている。乱暴な人とは出会わせたくないと思い、危険な道を歩ませたくないと思う。今の若者の親は、今と比べれば相対的に危険な、変化の時代を生きてきたから、わが子には変化のない安全な道を歩かせたいと思うのだろう。以前にも紹介した「かわいい子には旅をさせ」という『いろはカルタ』があるが、今の時代にはこのような『旅』というのも無謀なものらしい。学校の先生が引率する『修学旅行』というものはあるが、「モンスターペアレント」の蔓延する今日、万一事件や事故が起こったら、先生への責任追及は大変だろうし、校長先生などは神経をすり減らして大変だろうと思う。私が中学生だった50年前でも、綿密に組まれたスケジュールと一糸乱れぬ集団行動が強いられ、どんな逸脱も許されなかった。しかし『かわいい子には旅をさせ』という場合の「旅」とは日常性からの逸脱が常態であり、偶然に出会う人や土地、事件などに対しどのように対処していくのか、そんなたくましさを身に付けてほしいという親の願いであったと思う。
修学旅行のような旅だけではない。人生という旅でも安全な旅行を願ってしまう。安全な旅行の為にはまずパスポートを手に入れさせようとする。今時、人生のパスポートと言えば大卒の資格だと思っている。大学受験をするのは本人なのだが、実際には小・中学校のころから受験生活は始まっている。中学に入る前の本人には、将来どんな大学に入るかなどの意識はない。私立や国立の中学など将来の受験準備の選択に苦労しているのは親である。小・中・高を含めて12年間、予備校を含めてプラスアルファの何年間。大学生活でも4年プラスアルファ。そんな長い期間の苦労を重ねてやっと子どもに取らせたパスポート。だが、大学を出て就職をし、1年も経たないうちに退職し、引きこもってしまう人がいる。パスポートは準備するのだが、自分の足で歩いて行くための肝心の足を鍛えておくのを忘れたのだろう。
こんな親に限って、わが子を引きこもりにさせたのは自分たちなのだということに気がつかない。そのうえ、教育熱心で自分たちもある程度知的レベルの高い人たちだから、子どもの引きこもりを自分たちの力で助けようと思う。ところが引きこもりにさせたのは自分たちなのだから、引きこもりの原因も実態も分からない。本当は第3者の支援を求めて優しい気持ちで、人付き合いをさせていけばよいのだが、大学を卒業させたことやパスポートにこだわって、そんな人生に復帰させようとする。
親がレールを敷いてルートを定めた旅に比べて実際の旅は偶然の連続である。乗るつもりの列車に乗り遅れてしまうこともある。泊るつもりの宿が見つけられないこともある。偶然出会った人に思いもかけない世話になることもある。騙されて身ぐるみはがれてしまうこともあるだろう。良い人も悪い人も、どんな人に出会うかもわからない。それが旅というものだろう。それが人生というものだろう。人はその旅から学び、旅によって大きくなっていく。世の中には旅上手な人も、そうでない人もあるが、最初から旅上手、旅のベテランだなどという人はいない。たいていはいくつもの失敗を重ねて、さびしい思い、怖い目にもあって、旅好きになっていく。親にしつらえられたお仕着せの旅しか経験していない人は旅好きになどならない。それだけ偶然に出会う人も少ない。いくらお仕着せの旅に慣れた人でも、いつか一人きりの旅に出なければならない時がある。人生は山あり、谷あり。そんなとき、険しい道を切り開いていけるだろうか。
旅に限らないだろう。日常生活の中でも人はさまざまな分かれ道に差し掛かる。片方が親に教えられたよく知っている道なら、そちらの道を行くがよい。だけど親に教えられた道が常に安全な道だとは限らない。知らない道でも、注意深く歩んでいけばよい。人生で大切な人に出会うのはたぶんそちらの道だろう。
2009.03.10.