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NPO法人ニュースタート事務局関西

直言曲言(代表コラム)

直言曲言 第249回 Yes

  “Yes we can”というのはアメリカ次期大統領オバマ氏の選挙運動中のスローガン。黒人初の大統領候補ということやアメリカという国が世界中の国から総スカンを受けて自信喪失に陥りかけていたのに対して、自信を取り戻させるかのように呼びかけた言葉だ。このYesという言葉は、自信を失いかけている人には必要な言葉ではないだろうか。私もまだ見ぬ引きこもる人々に対して“Yes you can”と言いたい。引きこもりになったのは親のせいとは言わないけれど、引きこもってから彼らが耳にしたのは否定的な言葉ばかり。「あなたは○○ができない。」「あなたは○○してはいけない。」すべてが否定語で語られてきた。残念ながら親であるあなたが言う前に「できていない」ことは、本人が自覚している。必要以上に感じてしまっているのだ。だから次の一歩が踏み出せない。

  否定語と禁止語が蔓延する世の中。この社会は、あるいは人間はこれほど否定語や禁止語で語られなければならないのか。否定や禁止だけで命令されるだけなら、生きていくことに自由や喜びはないのだろうか。本当はそんなことはないはずなのに、親たちが放縦(ほうしょう)に生きてきて、どこかで抑制することを強く迫られたから、それが脅迫概念となって子どもたちにも言い続けてきているのだろう。引きこもりたちは親からも社会からも全否定されているような気持ちになってしまい、生きる意味が見つけられず「死んでしまおう」などと思いかけている。

  引きこもりだから言うのではない。若者たちすべてにYesと言っていただけないだろうか。若者たちには何がYesで何がNoなのか分からないのだ。もちろん、してはいけないことにNoというのは良い。しかし親でさえ、本当はYesかNoか分からないのにとりあえずNoと言っておくことはないだろうか。Noと言われれば、子どもたちは行動できない。何も行動しなければさしあたって危険な目にあうことはない。そう思っているのだろう。引きこもりもそうだ。いまや子どもが引きこもってしまって、困っている親は多いけれど、家の外へ出ていけないと交通事故に遭うこともない。人を危めてしまうこともない。子どもが引きこもっている方が親にとっては都合が良いと思っているのだろうか。

  本当は、外に出て、人に交わらないと何がYesで何がNoなのか分からないのだ。親が言うNoだけで子どもが引きこもってしまうとは思わない。子どもたちは何らかのきっかけで自信喪失に陥る。そこから自信を取り戻そうといろんなことに取り組もうとする。その時親は冷静すぎるほど客観的に子どもの行為を評価する。世間並の価値観で、行為の損得を評価し、Noという。子どもはNoと言われて、再び自信を失う。自信回復の為の行為の出鼻をくじかれるのだ。あなたのようにすべてに打算的で、そろばん勘定を第一に考えているならば、損得で考えるのも良いだろうが、他にやるべきことが見つからずこれしかないと思い込んでいる時に「そんなことをやっても生活していけないぞ」などと当たり前のようなことを言っても良いのだろうか。子どもが未成年であるとすれば尚更だ。どうせ大人になれば損得判断で生きてしまうのだ。損か得か、成算があるかどうか本当は分からないのだ。それよりも子どもの夢や意欲を摘み取ってしまう方が問題ではなかろうか。

  子どもには最初から善悪の判断などあろうはずもない。性的な衝動についてもそうだ。小学校高学年から中学生にかけて少年・少女たちの体には性的な兆候が現れ、性への関心や欲望を持つようになる。生物学的な知識がある人なら誰でもだが人間の成長段階として当然で、やがてそれが恋愛感情として異性に対する関心となり、結婚や出産など人間らしい行為に結びついていく。だが、早すぎる性の眼ざめに対して大人達は臆病だ。性的な関心がすぐに「性行為」になど結びつかず、ましてや性的な犯罪行為になど結びつきはしないのに、「小学生だから」「中学生だから」という理由で性的な関心そのものを否定してしまう。性的に異常な関心を持ち過ぎるのはともかくとして、子どもの性への関心を遠ざけようとして『性』そのものをも否定してしまう。子どもがその年代の親であれば、性の現役であるはずだ。中学生にもなれば、自分たちがどのようにして生まれてきたのかを知っているのに、人間としての基礎的行為を否定されてしまえば、性があたかも不道徳で汚い行為であるかのように思いこんでしまう。性の衝動の延長上にある恋愛でさえ不道徳で不潔なものであると思い込んでしまう。いまどき考古学的な考え方であるとさえ思うが、高校生以下の恋愛は「禁止」だとか「校則違反」視している学校は少なくない。それほど四角四面できないにしても、受験生の親や大学生の親でさえ「学生に恋人など不要」と思っている親は少なくない。

  こじつけかもしれないけれど、引きこもりの若者と付き合っていると20歳代後半になっても、30代になっても「恋愛感情」や「恋愛行為」に無縁な若者が少なくない。いやむしろニュースタートに来てから恋愛をする若者は少なくないけれど、それまでに恋愛感情を持ったことのある若者など稀有であるといった方が良い。追跡調査などしたわけではないが、引きこもりの若者には禁止と抑制に包囲されて育った若者が多く、まるで成長抑制剤に阻まれて大人になれていないかのようである。ニュースタートに来て、共同生活寮に入っているのに、いつまで経っても大人になれない若者がいる。もちろん、心が開けない心理的要因やアルバイトもできない社会的習熟度の低さなど心配するけれど、よく考えてみればこれらの若者は「異性への関心」が極端に低い人ばかりだ。「異性への関心」が低いのではなく、関心を抑制してしまっているのだ。成長抑制剤がまだ効きすぎている、ともいえよう。言うまでもなく、引きこもりの若者たちとは、まじめでおとなしく親の言うことも良く聞く子だった。学校に行って勉強することや就職することが何よりも大事なのだという「呪文」がいまだに効き続けているのだ。

  大人達は単に子どもの成長段階での「叱咤激励」のつもりで言ったのかもしれない。しかしそれは若者の心の傷に呪文としていつまでも残っている。親たちはまるで矯正施設に入れるようにニュースタートに連れてくる。それだけで親の役割が果たせたのではない。もう一つ仕事が残っている。それは呪文を解いてやることだ。禁止はいずれ解けることがある。それよりもきつい呪文は存在自体を否定する否定語なのだ。その呪文を解く共通語は“Yes you can.”

2009.01.01.