直言曲言 第243回 社会的排除 ― いじめの構造
引きこもりのきっかけや原因として「いじめ」の体験を挙げる人が多い。2006年の直言曲言では「少なくとも30%」と書いている。実際にはもっと多いかもしれない。小学校や中学時代にいじめられた体験を持つ人は意外に多い。私は引きこもりの原因は「いじめ」ではないと書いている。いじめを根に持って引きこもったりするべきではないとの意味でもある。一時「いじめ」というものが世の中に流行した。もちろん「いじめ」はよくないことであり、「いじめ」を黙認するのも良くない。いじめのことをあれこれと考えていると「いじめ」とは特定のことを指しているのではなく、人によりさまざまな行為を指していることも分かった。時には集団で暴行を受けたことを言い、あるときには意地悪で「大事なものを隠されたこと」も言うようだ。暴力はもちろん良くないことだが暴力=いじめではない。集団暴行を受けたとしても見知らぬ集団であればそれはいじめとは言えない。集団でなければ「けんか」や「制裁」であるかもしれない。これもいじめとは言わない。「物を隠す」という行為も「冗談」や「いたずら」である場合もある。「いたずら」や「制裁」を肯定しているわけではない。それらを固定的ないじめと受け止めて被害者的立場になってしまうことに納得できないだけである。
暴力が集団によるものでなければいじめとは言わないようだ。しかし、それは集団か個人かによるものでもなさそうだ。個人対個人の対立にだっていじめはある。いじめの定義は難しい。加害者・被害者の意識のありようによって決められる事柄のようだ。それでは被害者の考え方でいじめがいじめでなくなるのか?これはその通りである。初めからいじめではないのでなく、いじめではなくすることができるのである。
いじめが成立する基盤は集団にある。たとえ、個人の個人に対する暴力であったにしても、片方は孤立しており、もう一方が集団の支持に支えられているといじめになりえる。つまりいじめとは「仲間外れ」を基礎にした常習的な抑圧なのである。私がいじめは被害者の意識によって克服しうるというのも、「仲間外れ」を恐れなければいじめはなくなってしまうと思うからだ。例えばクラスでいじめが起きているとして、被害者がクラスを外れ、場合によって転校してしまえばいじめは成立しなくなる。転校などということがそれほど簡単にできると思わないが、自殺をしてしまうほど苦しんでいる人には簡単な解決法である。ただし小学生や中学生には両親や学校の先生などの理解がなければ実現できないだろう。転校したとしても本人が被害者的な意識を持ち続け、新しい仲間に加えてもらおうとして卑屈な態度をとり続けるとしたら同じようないじめは繰り返されるだろう。
学校でのいじめ自殺が起きた時など「先生はなぜ気がつかなかったか?」などの疑問が投げかけられる。マスコミや父兄などを中心に起こる論調だが、私は先生には分からないだろうと思う。暴力事件を目撃することはあるだろうが、それが単発的な事件なのかいじめによるものなのかは、普通の先生には分からないだろう。いじめとは仲間外れを基礎にした常習的な抑圧だとすれば、通りすがりに暴力を目撃しただけではいじめであるとは理解できない。先生を弁護するつもりはない。普段から子どもたちの動静を見つめていればいじめを見抜くことができる。しかし今の学校の先生にそこまで要求したり期待することは不可能である。先生にそこまで要求するのなら、親が気付いて転校させるなり善処することができたはずである。
仲間外れといえば、古来「村八分」というものがあることを思い出す。村の掟や秩序を破ったとして村人の申し合わせにより仲間外れにすることである。村八分になると結婚などの祝い事や祭りなど共同でやる催事などからはずされ、日常のお付き合いからも外される。ただし伝統的に葬式や火事はこうした差別から除外されている。これが二分で、残り八分からは除外されるという意味である。火事は非常時で放置すると延焼など村全体の災厄になりかねない。また葬式も死体を放置すれば腐臭などで迷惑が広がる。そうした功利的な意味もあろうが、葬式や火事などの不時の災難には村八分を一時的にも解除して助け合うという意味もあるようだ。これを考えると村八分というのは仲間はずれなのに、良識的・理性的な側面もあるのかなと思ってしまう。しかし良識的・理性的だからと言って肯定するつもりはない。むしろそうした良識も理性もあるのにやってしまう差別に人間の性(さが)を感じてしまう。
今はめっきり少なくなったであろうが、部落差別や朝鮮人差別なども不当な差別である。部落というのは未解放部落のことで、動物の屠殺や死体処理に係る職業の人などを歴史的に差別し結婚や就職・居住にまで差別をした。つい最近の戦後にも持ち越された差別である。士農工商という身分差別が江戸時代にはあったが、さらに下層を想定した部落民なるものの設定により下層庶民の欲求不満を排除したといえよう。朝鮮人差別はさらに卑劣で恥知らずな民族差別である。歴史的にも明らかなように日本は朝鮮半島に侵略し日韓併合などを経て朝鮮人も天皇の臣民として支配した。第二次大戦では兵士や労働力として朝鮮人を強制連行し苦難の歴史を背負わせた。にもかかわらず戦後は「日本国籍がない」などの理由により年金や戦後補償からの排除、公民権の剥奪など基本的人権を踏みにじって来た。朝鮮・韓国人差別はその他の外国人差別と違って、民族的に劣っているかのような伝統的な偏見に基づいている点が根深い。昨今は韓流ブームが起き、焼き肉やキムチなど韓国料理も日本人になじみ深くなっているが、インターネットで「朝鮮人差別」を検索すると驚くべきことに「差別」を正当化したり偏見をあおるようなホームページが半分程度あることである。
いじめを含めて、仲間はずれは単なる意地悪ではなく、社会にはびこる社会的排除である。おそらく、自分自身が社会的排除により少数派に陥ることを恐れて、多数派であることを安心するために少数派を非難する。本来、多数と少数に優劣などあるはずがない。多数に属していないと不安に陥るような弱い人間が差別やいじめを生み出す。いじめに怯えることは、いじめに加わる弱虫たちと同レベルに自分を置いてしまうことである。社会的排除の反対概念は社会的包摂である。社会的弱者も少数派も含めて共に生きていくような社会を望もうではないか。
2008.10.18.