直言曲言 第237回 平 和
8月は平和について考える月である。8月6日は広島、3日後の8月9日は長崎に原爆が落とされた日。8月15日は終戦記念日である。凶悪事件だとか無差別殺人だとか言うけれど太平洋戦争では日本だけでも民間人を含めて230万人以上の戦死者を出した。広島原爆では原爆が投下されさく裂した瞬間に10万人以上の人が即死したという。万単位の死者数を言ったり、原水爆の悲惨さを伝えても戦争の傷ましさや平和というもののありがたさが伝わるものだろうか。死というものは誰にでも等しく訪れるものだが重い病気にでもならない限り、特に若い人にとっては差し迫った恐怖ではない。しかし戦争になると老若男女を問わず、むしろ若い人にとってはなおさら身近に迫った死の恐怖を味わなければならない。平和というものはそれほど貴重なものだから、戦争の恐ろしさや平和の大切さを強調しなければならない。8月は平和のありがたさを実感する全国高等学校野球大会甲子園全国大会の開催があり、平和の祭典と言われる北京オリンピックも開催中である。それでも戦後60年も経ってしまうと戦争の悲惨さを実体験している人は少なくなってしまうし、語り継がれてきた戦争の悲惨さも色あせてしまうようだ。63歳の私にしたって、戦中の生まれではあるのだが、あるのは戦後の記憶だけで、戦争そのものの記憶は映画や写真、父母の話でしかない。
私たち老人はこのように戦争や平和の昔話をし、若者たちにうるさがれるものだが、実際私たちよりひと世代上の戦争を実際に覚えている世代はうるさかった。この直言曲言など読んでいるはずもないので気を使う必要もなかろうが、本来なら言うも憚られる話、私が通っているリハビリセンターの80歳代の先輩たちは、毎日のように従軍体験の話をしている。下級兵として召集されたときの話だから、面白い体験などであるはずもないのだが、まるで人生で唯一の面白体験であるかのように話している。おそらく面白いからではなく,彼らにとって唯一の共通体験が戦争の話であるからなのだろう。
戦争や平和の話など若い人には常にうざったい話なのだが、そんな平和ボケの年寄りに冷水を浴びせるような論文がある。朝日新聞社が発行する「論座」という硬派の論争誌の2007年1月号に掲載された「丸山眞男(まるやままさお)をひっぱたきたい」がそれだ。http://t-job.vis.ne.jp/base/maruyama.html .「丸山眞男」などと言われても「誰のことだか分らない」という人がほとんどだろうが、サブタイトルに「希望は戦争」とあり、「スワ、右翼イデオロギーの台頭」とリベラル派読書人を驚かせた。丸山眞男とは1996年に亡くなった東大教授の政治学者。戦後を代表するリベラリストであり、その丸山を「ひっぱたきたい」というタイトルだけでも大変ショッキングなものである。差別や格差の固定化としての平和よりも誰もが苦しむ戦争の方が良い。平和を説く東大教授丸山を上級兵として「ひっぱたける」戦争の方が望みだというものだ。この文の筆者は31歳・フリーターと自称する赤木智弘氏と言うが、この論文には多くの反論が寄せられた。代表的なリベラル派知識人からの反論である。この有名人からの反論や赤木氏からの再反論などの論争のもてはやしぶりに嫉妬したのかネット上では赤木論文を批評にも値しない低劣さだとこき下ろしている。私は必ずしもそうは思わない。競争社会でありながら、フリーターや引きこもりへの差別を固定化する格差社会である。この格差社会を流動化するために平和を憎むというのも分からないではない。ただし「希望は戦争」という結論にはあくまでも反対である。
「競争社会」というのは資本主義の原理で、根本的に反対なのだが、実際にはその「競争」さえ十全に保証されているわけではない。「競争」というものが認められるためには十分に平等なスタート条件が整えられていなければならない。現実には様々な不平等が存在し、その不平等の上での競争が強いられている。学歴競争にしたって片方は貧しい家庭環境にある子が勉強時間も十分に保証されていなかったり、他方は塾や予備校や家庭教師など好きなだけ補習時間を与えられていたりする。大学に合格する子と不合格の子がいるとまるで自由な競争の結果ついた能力の差であるかのように差別する。本当は本人の能力差であるよりも親の経済力の差でしかないことが多いのだ。
若者が本当に平等な条件で競争する以前に、若者全体が年寄りや大人たちの好き勝手に操られている社会ではないか。若者たちは本来、活力や筋力を兼ね備えている。一般に若者は成人すると職業社会の第一線に出て大いに活躍するものだ。ところが成熟社会である今日、若者には仕事が与えられず年寄りが仕事を独占している。フリーターや派遣社員など若者は低賃金・不安定労働で虐げられている。引きこもりが大量発生するのもこうした社会システムのゆがみに他ならない。しかも資本家や経営者側の人間だけでなく、一般の親たちや平和を唱える人間でさえこうした社会システムに加担している。これは差別や格差の固定化につながっているのに、こうした現状の肯定こそ「平和」だという。これだと「平和」を否定して戦争を希望したくなるのも分かる。丸山眞男という東京大学を頂点とする学歴システムの守護神のような男でも、戦争で徴兵されれば古参兵にひっぱたかれる。戦争になって似非(えせ)平等とか似非民主主義だとかがなくなれば、フリーターにも東大教授を殴れる機会が訪れるようになるかもしれないのである。
しかし「希望は戦争」などというのは実際には8月の真夏の幻想にしか過ぎない。フリーターには「うつ病」の人が多いし、引きこもりにも「対人恐怖」の人が多い。祖父などに軍隊経験者がいる人は聞いてみるとよい。軍隊というところはうつ病だから対人恐怖だからと引きこもることを認めてくれるようなところだったか?「うつ病」とは職場での人間関係の不調から陥りやすいとされる病気だから、軍隊などでは大量に発生すると予想される。しかし、戦前の軍隊では「対人恐怖」など認められる訳もなく、「うつ病」などという病名すらなかった。「たるんどる!」と引っ張り出されて往復ビンタ(何回も頬を平手打ちされること)を食らうのがオチである。とても丸山眞男をひっぱたくレベルには到達しないから戦争を希望することなどマジでお勧めすることはできない。
しかしこの生温い平和と格差社会の腐臭はどうしたものだろう。秋葉原事件の加藤智大容疑者はネット上では彼の犯行を「共感」出来るものとして賛美する「加藤大明神」と称える声が絶たないという。またこうしたブログの削除を主張する人たちも多いと聞くが「戦争が希望」の筆者赤木智弘氏は加藤氏の行為は「うなづける」としている。
2008.08.16.