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NPO法人ニュースタート事務局関西

直言曲言(代表コラム)

直言曲言 第236回 親

  「親を困らせてやりたかった。」八王子市の駅ビル9階の書店で女子店員らが殺傷された事件で犯人はこう言ったそうだ。「誰でも良いから殺したかった。」最近の無差別殺人事件で良く聞くセリフとともに聞きなれたセリフである。事件は凶悪でなかなか記憶から消せないのだが、犯人像がワンパターンで同じようなことを言っているのでコメントする気もしなくなってくる。それだけ事件の背景の社会的病根が深いということで、慣れてしまってはいけないとも思うのだが。事件のイメージがありふれてきたのは最近の若者が凶悪であるということがありふれたことなのか?少なくとも犯人たちの思考パターンが似通っているのは事実のようである。八王子の犯人は33歳である。普通ならそんな人が何かやらかしたとしても親の存在など触れられもしない。「親を困らせてやりたい」などというのは反抗期までの少年のようではないか?

  「親を困らせたい」という気持はわからなくもない。親に恨みを抱いているとか親に反発を感じている時だろう。子どもは小さい時、親の指導や成育によって育てられる。反抗期は親の生育から脱しようとして抵抗を試みる時期である。子ども本人も親もこの時期を誤って過ごすと、いつまでも親に甘えていたり、逆に反抗し続けたりする。親も子どもの自立に向けた自然なふるまいだと気づかないと、不良行為だとか、親に対する反逆行為だと思ってしまう。
  もちろんこの第2反抗期というのは一般に14・15歳のころのことである。当然個人差があるので前後2年程度の誤差があるのは不思議ではない。引きこもりの相談を受けていて感じるのだが、最近はこの反抗期がまったくない子や、5年も10年も過ぎてから反抗期らしき現象が現れる若者がいるので驚く。本人は大まじめで親に抵抗しているつもりだが14・5の子どものようなふるまいをしているのは、未熟を絵に描いたような状態なのである。成長過程で必然的な通過儀礼なのだろうが、それがふさわしい年齢に出てこないのは過剰な競争プレッシャーに押さえつけられていたからだと思われる。麻疹のように一度はかからなければいけない病気なら早く済ませておくにこしたことはないと思う。

  親への恨みとは無理強いされた勉強とか、意に染まない抑圧の記憶からいつまでも抜け出せないのだろう。本来恨むべきことでもないが、親の方でも本人が望むかどうかや本当に本人のためになるかどうかなど深く考えもせずに惰性的に押し付けている。惰性的な押し付けのままだから親の考え方や愛情など感じることなく、嫌なことを押し付けられたという記憶だけがいつまでも残っている。このことはなんとか分かるのだが、人を殺すという大変なことを起こしてまで「親を困らせる」という目的を達成しようとするのだろうか。あるいは「親への恨み」というのはそれほどまでに苛烈な感情なのだろうか。誰か読者の側で、出来れば40歳以下の人で、この感情について説明できる人がいれば私宛のメールでも掲示板への投稿でも良いから教えてほしい。

  新聞やテレビをにぎわせるような殺人事件など起こりはしないが、親を困らせるということを唯一の価値基準に置いているとしか思えないような若者は後を絶たない。学校に行かない、学校をやめる。就職しない。家から出ない。引きこもりにもさまざまな理由がある。頭ごなしにそれが「悪いことである」と言われても理解できないこともあるし、止められないこともあるだろう。私は私なりに引きこもりの理由を考えているし、その若者の考えているだろう引きこもる理由についても考える。心理学的な誘導の魂胆などないけれど、その理由に共感するところがあれば解決手段も見つけやすいし、こちらの説得理由も理解してもらいやすいと考えている。ただし、こちらの考えた理由も相手の気持ちを推量した根拠も相手の若者に直接伝わるとは限らない。人間というものそう簡単に推察されたり、ずばり言い当てられて素直に受け入れられるものではない。

  不都合な振る舞いがあると当然ながら本人に是正を求めるのだが、その後も一向にその行為をやめようとしない子がいる。こちらの言うことが通じない。理解力に問題があるのかと思ったりするが、観察しているとそうではない。問題の解決を親に委ねてしまっているのだ。幼時には自己解決能力がない。問題が起きると親に訴えて、問題を解決してもらう。その習慣が抜けきれないのだ。道で転んでも親が助け上げるまで起き上がろうとしない子がいる、あれだ。

  長じて、起き上がりの問題だけでなく、自分で解決しなければならない問題が出てくる。自分で解決できなければ、社会に訴えて社会的に解決しなければならない問題が出てくる。
当然の自立ができていなければ、こうした自己解決や社会的解決の回路ができていない。回路ができていないから、問題解決の回路を求めて親に直結する。これは本来の問題解決にはふさわしくないからショートしてしまう。しかし本人にはその他の問題解決回路は思いつかない。つまり親を困らせれば何とかなると思い込んでしまうのだ。ドメスティックバイオレンスもこうした回路違いの爆発である。

  自分で解決しようと思えば何でもない問題である。転んで起き上がるのにも何の支障もない。骨折しているわけでもなく、捻挫をしてしまったわけでもない。友達がいないからと言って親に友達を作ってもらうわけにはいかない。自分から友達にニコリと笑いかけたり話しかければよいだけの問題である。恨めしそうに親の顔を見つめているだけではいつまでも問題は解決しない。

引きこもりはこうした問題解決能力に欠けている子だから、ニュースタート事務局は手を差し伸べる。たいしたことではないが95%はそれで解決する。しかし5%程度はどうしても解決できない子がいる。解決は自分に向けて問われているのだが、どうしても親の顔を見てしまう。「どうしても」と書いたが不治の病だとは思わない。私たちの能力や努力が不足しているのだ。だからと言って他の相談機関やお医者さんに解決能力があるとも思えない。多い事例ではないから問題のありかすら分からないのではないか。私たちはまだこの程度のレベルの問題解決能力しか持っていない。世の親たちが子どもを育て上げてきた無数の実績に敵うはずがない。ただし一人一人の親はそれほど多くの経験を積めるわけではない。一人では限界のある経験の回路を他人につなぎ、社会につないでいくことは案外大事な自立への道ではないだろうか。

2008.08.13