直言曲言 第234回 汗
7月になると大阪地方ではお約束のように気温が30℃を超えてきた。脳梗塞を患っている私は血のめぐりが悪いのか、クーラーが苦手で少しの除湿モードでも右足が凍るようにしびれてしまう。クーラーと蒸し暑さを我慢して、汗にまみれている。汗と言えば夏と共に労働の象徴。だがしかし、私は子どものころの一時期を除いて汗をかくほど働いたことはない。厳密に言えば働くことがあまり好きではなかった。特に汗をかくような肉体労働は極力避けてきたといえる。
上昇志向と言えば引きこもりの若者が持っている特質のひとつ。他の引きこもり関連書の中では触れられていることはないが、私は古くから上昇志向を引きこもりの特性のひとつと指摘してきた。過度な上昇志向が競争社会への忌避感や自己疎外を起こす。実は私自身がこの上昇志向に深く囚われてきた経験から言えることなのだ。私は貧しい子ども時代を過ごし、大学に進学するまで大阪の釜ヶ崎に暮らしていた。釜ヶ崎は大阪一の貧民街地区というよりもスラムとして一般社会から隔絶されたゲットーのようにそこから脱出するのが難しい地区のように当時の私には思われた。
昭和30年代の釜ヶ崎と言えば、労働者の街として成長し続けていた。釜ヶ崎で労働者と言えば肉体労働者。つまり汗水流して、己の肉体を切り売りするような生活をする人がほとんどだった。私の父は事業に失敗して、釜ヶ崎に流れて来ていたが、大男でとても病弱には見えなかった。父はそのことをとても気にしていて、人々は父が肉体労働に出ないことを非難がましい目で見ていたし、そのことでますます貧しい私たちを憐みの目でみていた。私は小学校に通っていなかった。不登校であるのだが、不就学児と言われていて学校に籍が置かれていなかった。学校にも行っていないということは文字通り社会からはじき出されていたわけで、大人になってもまともな社会人になるという道が見えなかった。「人並みに学校に行きたい」というのが当時の私の上昇志向で、止むを得ないとは思うもののかなり強固なものであった。しばらくして「不就学児一掃運動」と言うのがあり、私は4年間のブランクの後、中学に編入を許された。そのころの私の父の教育方針は一風変わっていた。
そのころは今ほど受験競争が厳しくなかったのか、釜ヶ崎の子はみんな貧しかったのか、クラスでも学習塾などに通っている子はほとんどいなかった。その代わり、下町の風習なのかそろばん塾に通っている子はかなりいた。私もそろばん塾へ行きたそうな顔をしていたのだろうか父は「そろばんなんてものは勉強のできない子がやるもんだ。お前はだれかに計算させればよい。そろばんなんて習わなくても良い。」少々強引ともいえる理屈で、私のそろばん学習に反対した。この理屈は自分でも多少強引だと思ったのか、のちにも同様のことを何度か繰り返した。高校生の頃だろうか、釜ヶ崎の同年輩の若者はみな運転免許を取り始めた。貧乏人の若者にとって仕事に役立つ資格は貴重なものだった。そろばんや簿記、旋盤技術に運転免許…。勉強のできない子は中学を卒業したら就職。少しできる子でも商業高校や工業高校を出て職業技術を身につけるというのが常識、普通科高校から大学を目指すなどというのは親不幸のバカ者の選択肢であった。私も運転免許に食指を動かしたが父は「バカ者!車の運転などそれしかできないものに任せればよい。お前は運転手を雇えば良いのだ」と強く反対した。ことほど左様に父は徹底的に私が実務的な技術を身につけようとするのを反対した。技術や資格だけでなく、実用的な知識もまた馬鹿にしていたといえる。父が尊重したのは旧制高校的な一般教養の知識だけであった。自分が苦学しながらも中退せざるを得なかった旧制中学に対するコンプレックスが一生を通じての私への教育方針であったらしい。そのことの是非は別にして、私はかなりいびつな古い教養観の持主であった父に育てられた。
それにもまして、小学校を卒業していないということの反動で、向学心に燃え、上昇志向のかなり強かった私は、まともな職業観を持っていたとは言えない。とはいえ、私が職業経験がなくお坊ちゃまのような少年時代を送っていたわけではない。中学に入った時すでにあらゆる種類の仕事を体験していた。屑屋の車の後押し、左官屋の見習い、日用品の訪問販売、駄菓子屋、お化け屋敷の従業員…50を下回らない職業を経験していた。しかしそのくせ先に述べたような父の教育方針のおかげで、かなりいびつな職業観を持っていたといえる。汗を流すような肉体労働、資格を売り物にするような技術労働はすべて父の嫌う仕事であった。
具体的に指示されたわけではないが私の選び得る職業は限定されていた。肉体労働はダメ。大工や左官のような徒弟修業で学ぶような職業もダメ。料理や菓子職人のようなモノづくりもダメ。公務員やサラリーマンのような勤め人もダメ。要するに汗をかいて働くような職業はすべて父親の侮蔑の対象であった。別に父の主張に対して唯々諾々として従っていたわけではないが、反抗期にも達していない私は、そんなものかと思いで父の意見を聞いていた。今考えてみれば驚く。父は共産主義者で、私に共産主義のイロハを教えたのも父であった。共産主義者が汗を流す労働を否定するなんて!当時の私は理屈も分からずに「そんなものか」と信じ込んでいた。
およそ自分の考えられる限りの職業を否定されていた私には進路がなかった。とりあえず上級の学校に進学するしかなかった。これも父の影響か短歌や詩に親しんだ私は、高校時代の文学趣味もあって大学は文学部に進むことを志望した。これは父の趣味に合致したらしく納得してくれたが、ここでも父は訳の分らないことを言って反対をした。「文学は大学で勉強しなくても自分で好きな本を読んで学べる。一人では学びにくい法学部を選びなさい。」そんなわけで私は法学部を選び進学したわけである。結局のところ、当時法学部が一番つぶしが効くと思われていたし、父の本心では自分がなれなかった判事か弁護士に息子をさせたかったのが事実だったと知った。私はついにその判事や弁護士になる希望も蹴って「無為の人」になるわけだが、案外それが父の希望だったかもしれない。私の父ほどではないかもしれないが、子どもに訳のわからないことを押し付けていると引きこもって何もしなくなるよ。私はいまだに汗をかく労働は知らない。クーラーもかけていないベッドで汗にまみれているけれど…。
2008.07.22.