<冬眠>する若者
若者の『引きこもり』とは何か?
答えはさまざまである.私が個人的に尊敬している精神科医・平野啓氏に紹介されたある精神科医の論文では,『引きこもりは<境界性人格障害>の<相対的安定期>を指す』という.ただし,この精神科医は<人格障害>とは<人格>の延長上の状態概念であり,<人格>が治療の対象ではないように,<人格障害>も治療の対象ではない,という.その<相対的安定期>なのだから,引きこもりは治療の対象ではないと言っているのだ.
何だか狐につままれたような論理だが,精神科医としての一つの見識なのだろう.私達も『引きこもり』を治療の対象としての『病気』とは見ていない.ただ,治療の対象でないものを<障害>と分類する医者の職業的な感性には同意できない.ただし,現実には治療の対象ではない<障害>というものも存在する.たとえば近視や遠視というのも視力障害のひとつには違いがない.一般的にそれは眼鏡を掛けて矯正はするが,治療はしない.
この精神科医は,治療の対象ではないから『引きこもり』の周囲の人が当人を『一刻もはやく引きこもりから脱出させようとするのは,その人とのふれあいを回避している姿にほかならない』と結論づける.要するに<相対的安定期>には手を出さず,その安定形態が<危機に陥り,崩壊したときに,はじめて境界例の病像を呈する>から医者の出番だと言っている.
結局『引きこもり』を病気の予備軍だと考えているのであり,病気になることを防いだり,健康を維持するための社会的な対応を侮蔑しているとしか思えない.
私が<引きこもりは精神障害ではない>という言い方をしていると,ある女性から『障害者に対する差別ではないか』という抗議の手紙を受け取った.確かに引きこもりは精神病ではないし,精神医学上は<鬱病>や先の<境界性人格障害>などもいわゆる精神病ではないとされている.
私達は,引きこもりを安易に<精神障害>と混同し,社会的に隔離してしまおうとする動きに警戒を緩めないが,同時に精神病であるから<異常者>であるとか,<治癒の見込みがない>とか,<社会的に隔離すべき>だとかする立場に与してはいない.
引きこもりの中には家族による事実上の長期隔離状態の末に<精神病>と診断された者や,さまざまな神経症状を呈する者もいる.そうした人達をも含めて,集団的なコミュニケーションや社会活動への参加を通じて,社会性を回復させることができると信じて活動に取り組んでいる.
私達は,引きこもりを精神障害ではなく社会病理が生み出した<社会病>だと主張している.個人の精神的な障害ではなく,社会システムの歪みによって集団的に発生している一種の<社会的冬眠>状態だと考えている.こうした<比喩的>な表現を使うと,上のような精神医学的な定義や議論と噛み合うことが出来ないが,そもそもこうした社会科学的な考察自体が,社会把握についての多様な視点の提示であり,自然科学の様に厳密に排他的な解答を求めるものではない.ある種の仮説提示によって,推論して行く方法である.
<冬眠>は変温動物が冬季に活動を不活性化して運動や摂食を止めることで,熊やリスなどの哺乳動物の冬篭りは<擬似冬眠>という.生物はこのように,周囲の環境が厳しくなり,生育に適さなくなると<閉じこもる>のである.落葉樹などが冬に葉を落として,生育をとめ,春になると活動を再開するために年輪ができるのである.
冗談を言おうとしているのではないが,今は就職<氷河期>といわれている.地球の歴史では<氷河期>にマンモスや恐竜が死滅したという.爬虫類や哺乳類の一部などは本能的に<冬眠>状態に入ることによって生き延びてきたのであろう.就職氷河期とは,言うまでもなく,毎年繰り返される四季の中の<冬>のように生易しいものではなく,ある程度の期間極寒の時期が続き,生き物の淘汰を進めるほどの,厳しい環境の変化なのである.経済のグローバル化が気候変動をもたらし,先進国の高賃金労働市場から豊富な果物を奪い,これまで寒冷の地であった国々に光をもたらしているのである.
ニッポンの温暖な時代を生きてきたマンモスや恐竜達は,わが子の<本能的>な冬眠志向を理解できず,叱咤激励して就学圧力や就労圧力を掛けるが,そうした生存競争への参加は,人間性をも犠牲にした勝ち残り戦であることを本能的に察知している現代の若者達は,緊急避難的に<冬眠>することを選択しているのである.
こうした<ものごとの本質>を理解しない心理学的なカウンセラーたちは,引きこもりが一人一人の若者の心理的受傷によるものであると仮定して,<癒し>を提供しようとする.あるいは,その個人的な心的外傷の対象化によって問題を克服するのを<待つ>べきだと主張する.
引きこもりがしばしば<個人的>な<心的外傷>を契機として現象することは否定しないが,いじめの恐怖体験や受験失敗といった<心的外傷>なるものは,本質的な引きこもり願望にとっての表象的な契機にしか過ぎない.恐怖や屈辱の体験を忘れることが出来たとしても(人間がそうした体験を忘れてしまうことが果たして良いことか,またそのためにどれほどの時間がかかることか?),そうした表象の下に潜む,恐怖の再生を用意する社会システムの歪みが温存されている限り,彼の社会的引きこもり=社会的冬眠は覚醒しようとはしないだろう.
必要なのは<癒し>なのではない.学ぶことや,働くことや,生きることが他人を傷つけ,他人を押しのけ,自分をもまた傷つけてしまうようなシステムではないような学び方,働き方,生き方の発見であり,そのように生きようとする仲間との出合いである.単純に言えば,孤立からの脱却であり,生存競争に勝ちぬくのではない,共に生きる=共生システムの構築に向けての,参加の入り口の提示である.
こうしたことを書いていると,随分<楽観的>な政治主義者か,若者の味方を装う偽善者だと思う人がいてもおかしくない.多くの大人達は,競争に勝ちぬいて経済的な利益を追求することだけが人間の真実であり,それ以外のことを言うのは似非政治家や宗教家に違いないと,ほとんど確信を持って生きてきたのだから.
しかし,そうしたものの考え方を,あなたがたの子どもである,これからの若者達に押しつけようとするのは無理ではなかろうか?彼らは,あなたがたが築いてきた経済的な豊かさや,金銭的な安定というものを最早他人と争ってまで手に入れようとは考えていないのではないか?
彼らに聞いてみれば良い.何が欲しいのか?と.彼らは言うだろう,欲しい物はない.ただ,生きがいが欲しいと.
あなた方が愛してきたはずの,美しいニッポンを彼らは醜いと感じている.ニッポンには希望がない,だから<冬眠>を選ぶ.企業戦士として生きてきたあなた方の苦労を,こともなげに否定し,戦士としての徴兵を拒否している.
彼らは次にどうするのか?あなた方が連綿として引き継いできた,日本的なものを拒絶する.日本人であることを拒絶する.そして言うだろう.
『勤勉という名の勝ち残りのための遺伝子相続を拒絶する』と.
(8月30日)