直言曲言第214回 能力主義
能力別、能力主義、○○能力検定などと言う言葉をよく聞く。あまり好きな言葉ではない。私立高校などでは能力別クラス編成や最近では漢字能力検定試験などと言うものも流行っているらしい。能力のある人により高い能力を目指させるのであるから、一律に難しいハードルを越えさせようとするよりは良いことだろうか。能力の高い人が、より高い能力を目指すのは良いことだが、そうでもない人はどうすれば良いのだろう。私には、能力検定というのが、能力差別につながり、自信喪失してしまう人が多すぎるように思える。特に引きこもりになる人
は、人より劣っていると思い込み、他人と接触することを避けるようになる。
能力検定試験などそのつもりがなければ受けなくても済むものだが、逆に常に能力なるものを気にかけるとなるとあらゆるところに能力検定試験がある。学校では大小を問わずに言えば毎日のように試験と言うものがあり、中にはその後の人生を左右しかねないものもある。学校を卒業しても、様々な資格検定試験がある。どうしても必要な資格であれば試験を受けてその資格を取ることも必要かもしれないが、必要でもない資格をなぜ取りたがるのであろうか。昨年出合ったある引きこもり青年の親がそうであった。息子に特殊車両(機械)の運転資格の試験を受けさせると言う。その試験に合格したそうなのでそういう職業に就かせようとしているのかと思ったがそうではないらしい。今度はまたまったく別の資格の勉強をさせて試験を受けさせると言う。引きこもりで、あらゆることに自信を喪失しているので資格を取らせて自信を取り戻させようとしているらしい。親の気持ちとしては分からないでもない。
この場合、試験に合格したから良かったものの、もし試験に落ちていたら益々自信喪失に陥っていたのではないか。一体、資格試験に合格し何種類もの資格を保有して自信たっぷりの生き方をしていけるものだろうか。何十種類もの資格を持っていても、自分が持っていない資格について『それを持っていないと一人前ではない』様な気がしてきて、益々不安になってしまうのではないか。例えば『調理師免許』など持っていない料理人はいくらでもいる。料理の達人などと言われる人には調理師免許など持っていない人のほうが多いのではないか。それに毎日、家族のために美味しいお料理を作ってくれるお母さんは調理師免許など持っていないはずだ。
資格や免許を欲しがる人には、その免許がなければ何かをすることが出来ないと思っている人が多い。逆にその資格を得れば、何かが特別上手になると思っている人が多いのではないか。例えば『運転免許がなければ自動車を運転することが出来ない。医師免許がなければお医者さんになることは出来ない。しかし、コンピューターやワープロの資格はなくてもコンピュータやワープロを自由に操作することは出来るし、それを職業にしている人はいくらでもいる。家を建てたり、設計する人にも『建築士』と言う資格があり『1級建築士』と言うのは大変難しい資格だと聞いている。国会で話題になった耐震設計の偽装などをやらかしたのは1級建築士だ。2級建築士だって試験があり、大学を卒業した人が受験しても多くの人が落第する。2級建築士と言うとなにやら難しそうな資格に聞こえるが、いわゆる『大工(だいく)』さんならざらに持っている資格だ。逆に名大工、棟梁(とうりょう)と言われる人だって建築士の資格など持っていない人はたくさんいる。つまり資格というものと、職人としての腕のよさとは関係がない。小島よしおばりに言えば『そんなの関係ねえ』と言うわけだ。
ではなぜ何にでも資格というものがあるのだろうか。本来誰が何の職業に就こうと自由だったのであるが、国の偉(えら)い人たちが人々の職業を統制しようと思い始めたのである。技術を持った人が増えるよりも技術や資格も持たずにただひたすら人のいわれるままに筋肉を動かすだけの労働者がふえたほうが良いと思い始めたのである。だから何をするのにも『資格』が必要だと思わせて、国家資格だの都道府県免許だのと言う制度を作り始めた。運転免許や医師や弁護士などは法律を定めてその免許を持っていない人が自動車を運転したり医者弁護士の営業をすることは禁じられている。だけど調理師や大工さんなどは、資格制度が始まる前からその職業についている人がたくさんいる。国の手先となって資格試験の採点委員をやる人よりも、はるかに優秀な技術を持った人がたくさんいる。また国やその他の機関の資格を取った人だけでは、調理師や大工の受容には追いつけない。だから仕方なく、免許や資格のない人にもそういう技術を発揮する自由を認めているのだ。
資格を持っている人や資格を取ろうとする人を咎(とが)めるつもりはない。しかし人が他人の能力に対して『能力がある』とか『能力がない』などと判定し、そのラベルを貼るなどと言う行為はおこがましいことで、卑しむべきことだと思っている。国や都道府県が資格や免許を発行するのならともかく、最近の多くの資格は○○協会などと言う民間の団体が勝手に能力検定を行い資格や免許を発行している。もともとは何の権威も技術的な裏づけもない団体である。業界関係者が勝手に設立した団体で、その資格もその団体が勝手に認定しているだけの資格である。しかし設立してしまえば、何人かの国会議員を通じて関係省庁に圧力をかけて、いつの間にか国家資格であるかのようにふるまってしまうのである。
このように他人の資格や能力の有無を判定したり、その免許証を発行しようなどと言う行為は恥ずべき行為なのであるが、それが商売として成立するところに問題がある。資格や能力判定をしても一銭のお金にもならないのなら、あるいは特定の利権に繋(つな)がらないのなら良いのだが、たいていの場合試験を受験するだけで大金がかかったり、試験に合格して免許状を発行してもらうのに大金がかかったりする。またそのどちらでもない場合、試験を受けるための勉強にお金がかかる場合もある。
茶道や華道、舞踊などと言う日本的なお稽古事でもそうだ。幼い頃から『花嫁修業』と称してお茶やお花を習う習慣があり、お稽古料はそれほどでもないが、大きくなって師範や名取りなどの資格を取ろうとすると驚くほどのお金がかかる。町には何々流の家元と言う看板がかかるが、その家元も流れを辿ればたいていは京都にある宗家と言う家元に行き着く。つまり全国にある末端の師範や名取りといわれる人からの免許代金が家元宗家に入ってくる。大変な金額である。家元制度というのは資格や免状と言う目に見えない権威によって巨大なお金を集める制度だと言える。
資格や免許を与えると言う虚構の制度は世の中を虚構まみれにする恥ずべき制度だが、虚構は与える側の責任だけでなく、資格や免許を求める側にも責任がありそうだ。人にラベルを貼ると言う浅ましい行為を裏返せば、ラベルを貼られることを求めると言うさらに浅ましい行為によって支えられているのだ。ラベルを貼られることによって、ラベルを貼る側と同じ利権を得ようとするあさましい行為である。もちろん無資格、無能力と言うことでマイナスのラベルを貼られ、さらに自信喪失に陥ることもある。資格など拒否してしまえば、その虚構はあっという間に崩壊する。
2008.01.14.