直言曲言 第212回 相談
私は社会的引きこもりの『ベテラン』相談員である。自分で『ベテラン』などというのは傲慢なようだが、ニュースタート事務局関西に寄せられる悩みの相談にほぼ一人で答えている。定例会に参加する人、父母懇談会に参加する人、鍋の会で質問をする人、メールでの質問など、毎月20通を下回らないだろう。それ以外にこの『直言曲言』は200回を超え、毎回引きこもりに関連するエッセーをずいぶん断言的に書いている。いつから私は引きこもりの専門家になり、エキスパートになったのだろう。
1998年10月、大阪でNPO法人ニュースタート事務局理事長二神能基氏の講演会を開いた。二神氏とは長年の友人で、ニュースタート事務局の仕事を手伝うように誘われていた。講演会は盛況で100人を超える人が集まった。当時『大学生の不登校』や『社会的引きこもり』が話題になっていた。『大学生の不登校』など誰も未体験で、集まった親たちは誰も『どうしたらよいか』悩んでいた。講師の二神氏に質問や相談が殺到した。しかし2〜3時間の講演会である。講演の後の質疑応答に答えられたのはわずか数人である。100人ほどの人は質問も出来ず困惑した。二神氏は大阪の後、九州地区の講演に出かけなければならなかった。その後も、千葉方面での相談や仕事が山積している。講演会は終了時間を迎えた。司会をしていた私は困った顔をして、二神氏を見た。二神氏は横を向いて涼しい顔をしている。『はめられた』と私は思った。二神氏はこうなることを最初から予想していたのだ。『来月また集まりましょう』仕方なく私は会場の人にそう宣言した。1998年11月から大阪定例会が開かれるようになった経緯である。
私はそれ以前から大阪でシンクタンクの社長をしていた。企業などからの相談には慣れていた。その場で即答できなくても、1日もらえば図書館やパソコンで調べて、それなりの答えをすることには慣れていた。教育問題に関しては仕事柄一家言を持っていた。社会学的な分析は出来ていた。それにこの講演会で二神氏が話してくれた言葉が私の財産になった。『家族を開く』『親以外の他人の助けを借りろ』これだけでたいていの相談は追い返せた。何人かの協力者もいた。カウンセラーの経験者や、子育ての経験者たちだった。半年くらいはそれで保たれた。しかしやがてそれにも疑問を持った。相手の話を聞くだけ、本人の気持ちを受容してやれと言うカウンセラー経験者や心理学かぶれの優しいお母さんの言うことが、引きこもり問題を解決する道だとは思えなかった。相変わらず私は『引きこもりは病気ではない』と相談者を一喝し、社会的な影響や親の過干渉をたしなめていた。
相談者を納得させて、追い返すことは出来ても、自分自身納得できているわけではなかった。それでも記録を見るとその頃から『直言曲言』を連載し始めていて、社会的引きこもりについて生意気な発言をしていた。引きこもりについてほとんど何も知らなかったはずなのに。何かを知っているから書いていたというよりも、次から次に持ち込まれる問題に答えざるを得なくて書いていたに過ぎない。一年くらいは猛烈に勉強した。最初はカウンセラーたちがよりどころにしている心理学だった。フロイトの伝記から読み始めた。ユングやラカンも読み進めた。精神分析への取り組みぶりやその手法は分かったが、その治療の内容や、誰をどのように治癒させたかと言うのは分からなかった。心理学や精神分析は科学としてのアプローチはするが、誰一人治癒させたことがないということが分かった。精神医学も同様だった。ある精神科医と知り合いになり、メールを通じて往復書簡を交換したが、彼自身も合意したように精神医学は無力だった。人間の精神作用は、そんなに簡単なものではなかった。
それからさらに半年、困難さを感じる中で、私はニュースタート事務局の仕事にさらにのめりこんでいった。その頃私が夢中になっていたのは、相談者の悩みに徹底的に付き合うことだった。3人程度の親に徹底的に付き合った。意識的にその3人に搾ったわけではなかったが、結果的には困難なパターンの3人に搾られた。1人は精神科医から統合失調症の疑いがあるがあると診断されている女性であった。両親の話は聞かず、それどころか両親に対する不信感は妄想の域にまで達していた。私は匿名でその娘さんに手紙を書いた。もちろんその娘さんからは返事はなかったが、両親からの返事で娘さんが両親への不信感を和らげているのが分かった。半年余の手紙で娘さんの症状は緩和し、その後社会参加が実現したと言う。この人の場合、実現したい理想があったが、両親がそれを阻み、その抑圧が両親に対する不信感に高まったようである。
もうひとりは医者にはかかっていなかったが、妄想がきつい点では先ほどの女性以上であった。自分に対しては「万能感」があるのだが、学校の先生や周りの人は彼の才能を認めてくれず、人間不信に陥っていた。彼を愛する母親だけが理解者であったが、その母親を下僕のように扱い、引きこもり生活を送っていた。母親は彼の面倒を見ながら、困ったことがあると私にファックスを送ってきた。母親は昼間パートの勤めに出ていたが、勤め先のファックスを使うので、他人に見られたくない。私から返事のファックスが届くまでそばから離れられなかった。私はファックスが届くと10分以内に返事を書きすぐに返送した。そんなことが1日に数回もあり、1年以上相談と返事が往復した。届いたファックスは数10センチを越えた。
もうひとりは少し遠方だが普通の子だった。「普通」と言うのは『普通の引きこもり』と言う意味だ。これもお母さんのファックスが続いた。本人は一流の私学と言われる大学に入ったが、不登校になった。父親はバリバリとビジネスにいそしむがんばり屋だった。息子への期待が強かっただけに、不登校になった息子への失望も強かった。父親と息子は対立し、息子は口を利かず、父親も息子を受け入れようとしなかった。間に立った母親はどうしたらよいのか分からずに、途方にくれていた。何とか父親と息子を引き離し、共同生活寮などに入れて立ち直らせることが夢だった。しかし、引きこもりの若者というのは、自分がそんな寮に入らなければいけないような存在とは考えていない。その頃既に鍋の会をやっていたが、鍋の会に参加するのも特殊な人たちだと思い参加するのを拒んだ。また人間不信や対人恐怖があるので、大勢の若者が参加する鍋の会には恐怖感が先にたち、尻込みをした。お母さんとしては何年も悩んだ挙句にニュースタート事務局にやっと出会えたという気持ちがあり私から聞いた言葉を父親や息子に伝え、それに対する反応も逐一伝えてきた。遠方なので、簡単に連れてくるわけにもいかず、ファックスの往復は長びいた。やがて彼は鍋の会にも参加し、共同生活寮にも入寮した。2年ほどで模範生のように卒寮し、就職したが、長いファックスのやり取りは何だったのだろうと思った。引きこもりとは、青春の一時期にありがちな心理状態である。それを心配しすぎる母親が神経症に陥っているのではないかと思った。しかし親を責めることは出来ない。いずれも私の引きこもり問題に対する貴重な先生になった。
2007.12.07.