直言曲言第207回 いろは
『イロハ』とはものごとの『はじめ』、あるいは習い事などの『初歩』『基本』を指す。昔、手習い(習字)で字を書き始めるとき『いろは』から始めたからそういわれるようになったのだろう。『いろは』とはいろは歌。いろは47文字をすべて使って、しかも同じ文字を2度と使わない歌である。いろは歌には何種類もあるが最も良く知られているのは 『いろはにほへと ちりぬるをわか よたれそつね ならむうゐの おくやまけふこえて あさきゆめみし ゑひもせす ん』 であろう。歌の詠み方は 『色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔いもせず』
いろは歌はかな文字を覚えるための歌である。このいろは歌を利用したカード遊びが『いろはカルタ』である。『犬も歩けば棒に当たる』 という読み札に犬の絵が描かれた絵札が付いている。カルタといえば『小倉百人一首』を思い出す人もいるだろう。こちらは百種の和歌を覚えるのも難しく、小学校高学年以上向き。いろはカルタなら幼児でも平かなが読めるようになれば遊びに参加できる。日本全国で流行したらしく『い』『ろ』『は』 別の読み札も様々な変種が存在する。『犬も歩けば棒に当たる』が代表的なものだが『石の上にも三年』とか『急がば回れ』『一寸先の闇』『一を聞いて十を知る』など上げればきりがない。『犬も歩けば…』で始まるのは『犬棒カルタ』とも言う。またこの種は最後が『ん』のかわりに『京』という文字が入っており『京の夢大阪の夢』。東海道53次はお江戸日本橋が起点で京の三条が終着点だった。そんなことからこれは江戸で流行った『江戸カルタ』ではないかと思われる。『いろはカルタ』はほとんどが『諺(ことわざ)』で出来ている。いろはカルタで遊ぶうちに多くの諺を学べるというわけだ。
今では百人一首はもちろん、いろはカルタでさえ遊ぶ人は少なく、子どもだけでなく大人でさえもいろはのことわざを知っている人は少ないのではなかろうか。『急がば回れ』というのは『急ぐときはむしろ回り道をするくらいのゆとりを持って行け』という意味だが、現代ならさしづめ『急がば近道』とでも言わなければ意味が通じないだろう。ビートたけしが『赤信号みんなで渡れば怖くない』というブラックジョークで世の中を沸かせたが、今ではそんなことはもう当たり前のようになって面白くなくなっている。
犬棒カルタの『は』の項は『花より団子』だが『早起きは三文の得』というのもある。『早起きして早朝の道を歩くと、道端に小銭が落ちているのを見つけて、得をする』なんて解釈してはいけない。『か』の項は『可愛い子には旅をさせ』である。『させます』でも『させましょう』でもなく、『させ』という連用形で終わっている。言い切らないことによる独特の余韻を残して共感を呼び起こすような気がする。いろはかるたではないが似たような意味のことわざに『若い頃の苦労は買ってでもせよ』というのがある。私は子どもの頃極貧状態だったので『買ってでもする』必要などなかったのだが、なぜこんなことわざがあったのだろうか?こんなことを言って、道徳教育の復活を望むような復古主義者に間違われるのを恐れるが、こんなことわざが通用していれば『引きこもり』などならなくても済むのにと思うことがある。
私は小学校の4年生の頃から様々な仕事をして家計を助けていた。12歳の頃、学校に行っていれば小学校6年生の歳だったが、毎日のように『旅』に出ていた。毎日、日帰りで出かけているので厳密に言えば『旅』とは言わないが、大阪の近郊に出かけた。近いところでは豊中の刀根山、羽曳野、星田、高槻、山崎など。少し遠いところで山城青谷、三田などである。『なーんだ、近いところばかりだ』というなかれ。確かに大阪近郊である。当時大阪西成に住んでいたので、片道1時間程度の今では住宅地ばかりだが、昭和30年ごろだから、みな田舎だった。訪れたのは結核の療養所、今では国立病院などの総合病院になっているところがほとんど。結核は今は特効薬も出来て特別な病気ではなくなったが、当時は難病で不治の病と思われていた。肺結核は空気の良いところで療養するのが一番だったので療養所は人里離れたさびしいところにあった。私はそこへ日用品の行商に行っていた。当時は小学校6年生の歳だったが『学生アルバイトです』と応えていた。私は体が大きかったので『学生』といえば不思議がられなかった。だって大学生でも小学生でも『学生』には違いがなかった。嘘といえば私は小学校にも行っていなかったことだ。
商ったのはゴムひも、糸、歯ブラシ、洗濯バサミ、のり、ノートなどの日用品。これらの商品は今では100円均一の店で売っているが、当時は十円均一の店があった。十円均一の店で交渉して6円50銭から8円程度で仕入れ、病院では35円から50円くらいで売った。私が扱ったのは安物の粗悪品だったが、価格はメーカー品と同じ程度。売上の8割ほどは儲けになった。約1000円の売上があり、交通費を除いた600円程度が収入。結核療養所はもっと遠くにもあったが、これ以上遠い所は電車賃が高くつきすぎて商売にならなかった。結核療養所は先ほど言ったように『人里離れた』所にあり、近くに商店などない。それに結核患者は長期療養の人が多く、見舞う人も少ないので人恋しい。おかげで行商は歓迎され、それほど必要でないものまで買ってくれた。
お客は歓迎してくれたが、病院が歓迎してくれたわけではない。それに粗悪品を扱っているので苦情を受けることもある。看護婦や看守に見つかり、追い返されることもあった。目標の売上に達しないときは、2ケ所、3ケ所と掛け持ちで回った。あるとき3ケ所目にある療養所に着くともう夕暮れだった。山際にあるので、日が暮れてきて、見上げると山の中腹にある人家には灯がともり始めていた。お腹はすいてくるし、心細いことはなはだしかった。
12歳の頃のこの行商で私が何を得たとはいえない。人に頼るだけではいけないということを自覚した.逆に人の情けのありがたさも初めて知った。50年以上が過ぎた今ではそんなこともあったな、という程度である。あえて言えば、心細さや寂しさを数多く体験した。しかもこの前もこの後も、私が淋しがりやであったことに変りはない。しかしそれからの私は、何か不安なことが起きても、すぐに他人に頼るという癖はなくなった。別に親から頼まれたり、強制されて行商に出かけたわけではない。だから親を恨むということもなかったし、むしろそれから先、父親や母親をより大事に思うようになった。
今のひきこもりの若者を見ていると、子どものころに親元を離れての旅をしたことなど皆無なのではないかと思う。豊かな社会なのだから、あえて苦労などする必要はないだろう。しかし『可愛い子には旅をさせ』ということわざは『貧乏』を前提になどしていない。たとえ交差点の先を曲がったところにある店への買い物でも良い。隣町へのお使いでも良い。親から離れる体験をさせて見たらいかがだろう。中学生や高校生になったら、泊りがけやさすらいの旅に出かけさせても良いのではないか。引きこもりになった我が子を見て初めて『過保護に育てすぎた』と悔いる両親。『過保護』ではない。『心配』をする手間を省いただけではないのか。
2007.10.17.