直言曲言第199回 ワーキングプア
ワーキングプアと言う言葉が流行っている。ワーキングは働いている。プアは貧しい。ワーキングとプアの間に『のに』という言葉が入っているようで、働いているのに貧しい人という意味である。 意味自体はそれほど難しくない英語である。しかし私はこの言葉が嫌いである。ワーキングプアというと私が少年時代を過ごした釜ケ崎を思い出してしまう。釜ケ崎では廻りに暮らしている人の多くが日雇い労務者、いわゆる肉体労働者であった。肉体労働者は働いているのにほとんどが貧乏人。肉体労働者が嫌いという意味ではない。世間では釜ケ崎の人間は怠け者で、だから貧しいのだと誤解されていた。釜ケ崎に流れてくるのには、それぞれ事情があったのには違いない。しかしそれが本人の恣意の結果とは限らない。そんな事情はお構いなしに駄目人間のレッテルを貼られてしまう。つまりワーキングプアは働いているのに貧しい。それはその人自身が悪いのだから仕方がない、と思われていた。もちろん、その頃にはワーキングプアという言葉はない。イメージだけがそんな具合だった。
ワーキングプアにしてもニートと言う言葉にしても若者の中に自称する人がいる。世間では蔑称として使用している言葉だが、新しい言葉だからかカタカナ言葉だから格好が良いと思うのか平気で自称している。私にはこういう自称は自虐的な言葉遣いにしか思えない。自虐的であるだけなら構わないが社会事象の本質を隠蔽してしまうような欺瞞的な言葉に思えて仕方がない。石川啄木の歌に
働けど 働けど 我が暮らし 楽にならざり じっと手を見る
というのがある。石川啄木が不遇のときを過ごしたのは事実のようであるが、啄木というのはたぶんに自虐的な人で、自分のことを悲劇の主人公のように詠んでいる。
東海の 小島の磯の白砂に 吾泣きぬれて 蟹とたわむる
などはその典型だ。どんなに孤独であったかもしれないが、海岸に一人泣き崩れて、蟹と遊んでいるなどというのはあんまりだ。教員や新聞記者をしていたはずの啄木が手を見たとしても、華奢で白っぽい手があったはずだ。労働者のようにごつごつした手があったとは思えない。例えそんなことがあったとしても、知らん振りをしていればよいじゃないか。短歌にして人に読ませるほどのことではない。確かに啄木の時代や私が釜ケ崎にいた時代は貧しかった。労働生産性も低く、働いても働いても豊かになれない時代はあった。しかし今はそうではないはずだ。貧しい人はいるけれど、それは望んでも仕事が出来ない人だ。世界にも難民はいるけれど、ほとんどが失業者で、毎日働いているのに貧しいという人はそれほど多くないはずだ。
働いても豊かになれない人とは、不当に安い賃金で働かされている人、誰かに搾取されている人だろう。農業は相対的に生産性が低いとされている。それでも機械化で生産性は上がり田舎では複数の自家用車を持っている農家がほとんどだと言う。それでも都市の工業や第三次産業の華やかさに憧れ、離農してしまう。都市で働いていて、それほど貧しいと言うのは、本来ありえない。ただし、最近の都市では非正規雇用という不当に安い賃金で働かせられている人がいる。派遣社員、臨時雇用、パート、フリーターと言われる人たちだ。正社員には賞与もあれば、休日出勤や残業は割増賃金で、有給休暇もあり、退職金も年金もある。フリーターにはそんなものはありはしない。フリーターの仕事はあふれているとはいえ、町の飲食店や商店の張り紙を見れば良く分かる。時間給は都市では750円〜1000円超くらいだが、1日8時間毎日働けるような仕事はほとんどない。深夜や飲食店の多客時限定で3時間程度、週に3日程度と言うのが多い。正社員なら、週に3日働くと言うことは週休4日、随分楽な労働条件ということになるが、フリーターなら週に3日しか働けない。後の4日は失業状態ということである。もちろん雇用保険などの社会保険はほとんどなく、昇給もわずか。いつ退職させられても文句は言えない。正社員なら不当に解雇されれば不当労働行為として労働基準監督署に訴えることも出来るが、今ではフリーターは雇い主の都合で解雇自由。裁判所も相手にしてくれない。これらはすべて企業が利益を増やそうとするからである。いまや大企業は史上最高益を出していると言うのに、不正規雇用で人件費を削減しさらに利益を確保しようとしている。
ワーキングプアという言葉を自称するのは良いとしても、若者たちに対して蔑称のように使うのは許せない。ワーキングプアを生み出したのはお前たち権力者や老人、経営者、政治家たちではないか?最近では『老人力』とかという言葉が流行っている。平気で若者たちを差別し、抑圧しているのは老人たちであると思う。私は色んな点で、かつての支配者層と若者たちの間で世代間戦争が行われなければならないと思う。『老人力』と言うのは経験豊富で知識が豊かであるという意味もあるが、狡猾で言い逃れが上手い。時には耳が遠いふりをしてとぼけると言う老人特有の処世術を示している。さらに『鈍感力』などという『開き直り』とも取れる『力』まで発揮しだした。私も60歳を超えており、世間で言えば老人の部類だ。しかし老人力や鈍感力というものは自慢したくない。
おそらく老人力や鈍感力などというものを主張する人は利己的に生きてきて、己のために稼ぐだけ稼ぎ、ためるだけ貯めてきた人ではないか?いまや自分の老後は安泰、いまさら若者たちが不満を述べたり、要求を出しても聞く耳を持たない。鈍感を決め込み、開き直っているのだろう。一部の老人の中には、このように身勝手な人がいることは知っていた。しかし『鈍感力』などという書物がベストセラーになったりしていると言うことは、こうした利己的な老人の開き直りを許し、自分もそれを手本にしたいと思うような人がかなりいるということだ。
私はかつて学生運動の一翼を担っていた(つもりの)ものとして、今の若者たちが老人たちやこの社会に従順になってしまったのを不思議でならない。この直言曲言の中でも何回か若者の反乱を期待してきた。ワーキングプアと自虐的に自称する前に、そんな事体になぜ反逆しようとしないのか。雨宮処凛(かりん)という作家は『生きさせろ・難民化する若者たち』(大田出版・1300円)と言う本の中で『なぜ日本の若者は暴動を起こさないのか(中略)既にひきこもりと呼ばれる100万人が、労働を拒否して立てこもっている。』
私はこの雨宮処凛という作家が好きだし、この本を書いた意欲も大いに買うのだが、この箇所にはなぜか引っかかった。引きこもりは労働を拒否して立てこもっているのだろうか。労働を拒否しているのは実態だが、それは意図的な抵抗ではない。引きこもりが意図的な抵抗運動なら、引きこもりを個別的に解決していこうとしている私などはさしづめ『スト破り』のようなものである。確かに私のやっていることは『スト破りだ』『反革命だ』という友人がいる。私も個別的に引きこもりを解決することが抜本的な解決になるとは思っていない。ワーキングプアと呼ばれる人などがいなくなるように社会的に解決しなければ不幸はなくならない。
2007.07.12.