直言曲言第195回 集中力と持続力
人間はやはり人間が好きだ。何よりも自分自身が好きだ。自分自身というのは『好き』というのとは少し違うかもしれない。何よりも自分自身が一番大切という感じかもしれない。赤ん坊のときはなんと言っても母親が好きだ。これも『好き』と言うよりも必需品と言う感じかもしれない。食べること、排泄すること、眠ること、なんにつけても母親がいなくてはすまない。その次は父親が好きになる。この人も無償の愛を与えてくれる。この人はどういう血のつながりがあるのかは分からないがとにかく好きだ。一番好きな母親とて、時にヒステリーを起こしたり、わざとかもしれないがこちらが泣いているのにほったらかしにされたりすることがある。
そんな時、代わりに面倒を見てくれるのはいつも父親である。母親と私は生理的なつながりのような思いがするが、そんなつながりもないのになぜかいとおしい人、それが父親である。もしかすると人が文化的な意味で人を好きになる初めての人と言うのは父親かもしれない。
お母さんにお父さん、それにいれば祖父母・兄弟姉妹、漠然とした好意と善意に包まれて小学生時代までは幸福に過ごす。中学生になると幸せにブレーキがかかったようになる。それまではのほほんと遊んでいられたが、中学生になると急に緊張に包まれる。勉強も急に真剣にならなければいけなくなる。数学や英語と言う新しい学科も始まる。テストの結果が発表されたり、学年の順位が発表されたりする。他人との競争を意識するようになるのも当然だろう。おまけにあの思春期と言うやつだ。
異性がやたらまぶしくなる。初恋と言うのか知らん。特定の異性が気になって仕方がない。将来のことも心配になる。何しろ、大人は一生懸命勉強して高校や大学に行かなければ良い人生が送れないという。異性や競争相手を含めて、他人が気になって仕方がない。他にも気になることは一杯出てくる。将来の職業のこと、家族のこと、科学的な興味…、気になることに注意がそらされると勉強に身が入らない。
この思春期から青年期にかけて、引きこもりに限らず他人のことにばかり気を取られて、集中力がなく持続力のない時期がある。学校の成績が上がらない、というかいくら勉強しようとしても身につかないときというのはこんな集中力がない時期である。この時期勉強が出来る、出来ないというのは集中力が有るか、ないかの差ではないかと思う。授業中でも授業に集中できない。試験前になっても試験勉強に集中できない。これでは成績が下がるのは当然だ。私にもそんな時期があった。だから良く分かる。その代わり大学入学前の数ヶ月は非常によく集中することが出来た。引きこもりになる原因というのとは別物だが、引きこもりになっても、この他人への異常な関心から集中力を失っている。引きこもりの一つの特徴だ。
親たちは引きこもりの状態を、すべてのことに対して無気力だと思っているが、実際にはそうではない。不登校や高校・大学の中退によって順調な将来は約束されなくなったが、自分なりに将来の夢は持っている。むしろ順調ではなくなっただけに、その代償欲求として『野望』とも言える大きな夢を抱いている。これぞ一発逆転、『リ・セット』狙いである。大望を持つことは良いことだが、この大望は望むだけで、実現に向けての努力がないままに終わることが多いようだ。今までに私が聞いた大望は『数学者になる』『哲学者になる』『サッカー選手になる』『世界的ボクサーになる』『ミュージシャンになる』『ゲームクリエーターになる』などである。大望を持つことは良いことだ。高校や大学を卒業して平凡なサラリーマンや公務員になるよりも、大望を実現したほうが良いに決まっている。私はたいていその大望を支持するのだが、まだ大望を実現した人はいない。ミュージシャンになりたい、と言う人はこの中ではポピュラーな方だろう。それでもかまわない。ミュージシャンには学歴もいらない。そんな人に私は聞く。『楽器は何をやっている?』答えは『……』のままだ。まだ夢を持ち始めて間がないのだろう。どんな楽器かも決めていないのだ。私はそう決めて納得する。1年くらい経ってその青年と再会する。ミュージシャンの夢はまだ捨てていないようだ。しかし『楽器は?』の質問には相変わらず『……』のままだ。ミュージシャンの夢を持つ以上は、せめて仲間とバンドを組んで、ストリートミュージシャンくらいにはなっていて欲しいのだ。夢が実現するかどうかではない。そのことに向けての努力が必要なのだ。
ボクサー志望の子も多い。こちらは街のジムに通っているという子もいる。1ヶ月くらい後に会うと『僕には向いていない。辞めました。』と言う。どうしてそんなに諦めが早いのか。引きこもりから立ち直ってボクサーになる夢と言うのはそんななに好い加減なものだったのか?ひょっとすると、親から問い詰められて、切羽詰って将来の夢はボクサーなんて、言い逃れをしただけなのか。そうではあるまい。思いつきだけではボクシングジムにまで通ったりはしない。集中力・持続力がないのだ。
テレビで格闘技の番組などを見ていると、時々芸能人などが登場し、リング上を逃げ回ったりしているかと思うと、思わぬ善戦をしたりすることがある。この手の娯楽番組を信用するわけではないが、芸能人というものは体格もあるけれど案外集中力があって、歴戦の格闘技選手にも拮抗することがあるものだ。引きこもりはほとんど例外なく集中力も持続力もなくて、簡単に自分の夢を手放してしまう。私は相変わらず、他人のことが気になって、自分の夢に集中できないせいだと思う。
もう一つ、引きこもりの若者の社会生活能力を示すものに自動車の運転技術と言うのがある。中学や高校を中退してしまった子の親は、引きこもりで身をもてあましている我が子を見かねて、運転資格を取得することを勧める人が多い。将来の職業技術として役に立つかもしれないと思うからだろう。実際、車を運転する人は多く、20代の男性では9割くらいの人は運転免許をもっている。年のせいにするわけではないが、私は運転免許を持ったことがない。昔から酒好きで、自転車でさえ酔っ払って転び、怪我をしたことがある。妻が運転免許を取ることなどとんでもないこととして許してくれないのだ。だからえらそうなことはいえないのだが、引きこもりは運転が下手だ。これも集中力の不足だろう。『注意欠陥多動障害』なんて精神科の医者が良くつける障害名がある。どんな病気だかはよく知らないが、運転不適格者にはぴったりの病名である。妻から言わせれば私などもこれに違いない。
運転免許を取るためには教習場へ行って運転を習い、学科試験と実技試験にパスしなければならない。実技の練習の時には、教官が助手席に座り、あれこれと指示をする。引きこもりは対人恐怖があり、知らない人が横に座っているだけで緊張してしまう。試験のときはなおさらである。普段の練習では立派に運転をこなす人でも、試験になると失敗をしてしまう人が多い。引きこもりからある程度解放されているかどうかを見るには、運転免許の実技試験を無事にパスできるかどうかを見るのも一つの方法である。ニュースタート事務局関西の共同生活寮では、卒寮間近に運転免許を取る人が多い。
2007.06.12.