直言曲言 第188回 「恥の文化」
『菊と刀』はアメリカの文化人類学者のルース・ベネディクトという女性の名著である。1946年というから昭和21年、戦後すぐに出版された。アメリカにとっては対日戦争である太平洋戦争のさなかに研究が続けられた。英語のことを敵性語、ジャズを敵性音楽として排除した日本とは違い、不可解と思える敵国の文化について、軍事的な目的のためとはいえ、研究をしていたのだから大したものである。『菊』とは天皇家の紋章であり、あわせて菊作りに励むなど日本人の美意識を象徴する。『刀』は言うまでもなく武士道の精神を意味する。筆者は文化人類学者ではあるが心理学の手法を駆使しており興味深い。のちの『甘えの構造』(土井健郎著)もベストセラーとなった名著であるが、こちらはずぶずぶの心理学書であり『菊と刀』には及ばないと思う。この『菊と刀』の一章に『恥の文化』というのがある。不可解な日本人の行動の裏には『恥』という独特の文化的価値が隠されているというのが大略の趣旨である。日本人は、その行動が他人の目にどう映るのか、他人からどう見られているのかを重視する。欧米人がキリスト教やユダヤ教の影響を受けて『罪の文化』とされるのに対して、日本人は『恥の文化』であると言う。確かに『菊と刀』というのも外国人から見た『日本人論』であり、これがベストセラー・ロングセラーとなっているのも、日本人が如何に他人の目を気にするかの証左であろう。
精神医学者である斉藤環氏は、『社会的引きこもり』の名著で名を知られたが、その後『儒教精神こそ引きこもりの裏に隠された原因ではないか』と仮説を立て、それを立証しようとした。20世紀の末になって激増した引きこもりは先進国病や文明病の一種として認識されていた。しかし、欧米からは引きこもりの症例は聞こえてこない。医学者特有の好奇心で病理学的な原因究明に意欲を持ったのだろう。引きこもりは東洋の一小国特有の神経症なのである。そこで『儒教思想』にその根拠を求めようとした。『儒教』は家父長を尊崇し、『家』を大事にする教えである。求職難という社会的な要因と共に家族依存という特色を持つ引きこもりに、北東アジア特有の儒教の影響を求めようとしたのである。私などもこの仮説には興味を持ち、斉藤氏の言説に注意を払った時期がある。斉藤氏は、韓国や中国にも調査に出かけたらしいが、儒教と引きこもりの因果関係についてはその後目立った研究成果は聞かれない。私も数年前、中国の研究者たちから話を聞く機会があったが中国には引きこもりがいるという話は聞けなかった。先日は、韓国の青年失業問題の対策機関や就労支援団体の人々が来日し、彼等から質問を受けたが、逆に質問を返したところやはり韓国に引きこもりが多いという話は聞けなかった。日本以上の競争社会であり、『漢江(はんがん)の奇跡』と言われたソウルオリンピック前後の高成長のあとIMFに煮え湯を飲まされるなどした韓国の経済危機は日本の社会体制に余りにも似ている。しかし相変わらずの競争社会で、受験や就職に失敗し閉じこもる若者はいるが、日本のようにそれが社会問題になると言うような状況ではないらしい。中国とて、世界の成長センターと見られながら国内格差の激しさは経済格差や矛盾を抱えた日本と同じような引きこもりの大量発生があってもおかしくない。『儒教思想』の大本やその経由国であるはずの韓国に引きこもりがいないとすれば、『儒教』が引きこもりの背景にあるとの仮説は見事に裏切られているのである。
そこで私は一つの新しい仮説を思いついた。引きこもりは『先進国が、高度経済成長後の不況により若者の就労状況を悪化させた上に、恥の文化の影響を受けた青年層に多発する神経症群』ではないかということである。
日本人は長い間の『武士道文化』の影響もあり、何かの失敗により恥をかくのを最大の不名誉とした。恥をかかされることは、時には万死に値するものとして避けた。他人の目に映った行動を判断基準とするのだから、恥は最も避けるべき行動である。英語のHARAKIRIは日本語の切腹と違い、汚名を雪ぐための自死であり、恥の文化の特徴とされている。近世後半になってからの刑罰としての切腹は別として、武士は恥をかかされた時には、自ら腹を切って果てたと言う。名誉を守るための自死である。絞首刑やギロチンなどもある欧米の刑罰史には見られない自罰行為であり、日本人の不思議な行動の一つである。名誉を傷つけられれば、復讐や決闘によって決着をつけようとする欧米人には不可解な『恥の文化』である。
不登校になったり、高校や大学の入試に失敗するのは競争社会の常であり、どこかの誰かが言うことではないが、再チャレンジ、再々チャレンジすればよいことである。しかし、友人に対する恥ずかしさと言うものはあろう。恥を隠すために家に閉じこもり、人目を避けようとする。やがて、それが不健康な慣わしとなり、対人恐怖や人間不信・友人拒絶となり、社会的な隔絶となり引きこもりに及ぶ。入学試験など競争を前提にしており、合格する人もいれば、不合格になる人もいて当たり前。不合格の人が、恥を感じて、結果として社会的自死ともいえる引きこもりになってしまうのであれば、試験をすること自体、殺人的行為と言わねばならない。
試験に落ちたくらいで落ち込む必要はない。もう一度試験を受けなおせばよいだけである。試験に落ちたのは、自分の努力が足りなかった、勉強不足だっただけである。別に人間として生きていく能力に不十分との烙印を押されたわけではない。しかし、本人が落胆するだけでなく、親も失望する。学校を卒業するのが1年遅くなると言う実利的な損害を嘆くだけではないらしい。他人からどう見られるのか、ご近所様がどう見ているのか。みっともない、世間体が悪い、と言った恥に属する感情も露骨に出てくる。
勉強不足であったのなら、予備校にでも行って勉強の仕方を教えてもらえばよい。それが「ひとなみ」というものだ。しかし、引きこもりの多くは予備校に行かなかったり、行っても途中でやめてしまう人が多い。予備校の授業料を親に負担してもらうのを遠慮してしまうようだが、無駄に1年を過ごしたり引きこもりになってしまうほうが親の負担になると言うことを知らない。親もまた一つの『他人の視線』というわけだろうか。元来、親思いの若者が多いので、親の世間体に配慮して、自室などに引きこもり他人と顔をあわせない。親の世間体感覚が知らないうちに、子の生き様に影響を与えてしまうのだ。こんな親に限って、自分の子の引きこもりに悪影響を与えていることを知らない。
恥の文化と言うのは主に貴族や武士の生活慣習の中から生まれたものだが、今でも引きこもりになる大衆の中にも生きているようだ。他人の目線と言うのは基本的には過密社会である日本のような社会で気になりやすいのであろう。ただし、都市特有というわけではなく、田舎においても、人と人との結びつきはきついので反って他人の目を気にしすぎる傾向がある。現在の大衆と言えば圧倒的にサラリーマンが多いが、現在のサラリーマンの意識には武士の文化がDNAとして生きているらしい。その子どもである引きこもりの若者の意識にもそれは反映されている。武士と言えば、二本差しに裃(かみしも)に袴、これが制服である。サラリーマンも背広にネクタイが制服のようなもの。どうも制服にこだわる人種と言うものは『恥』にこだわるものらしい。今や士農工商と言った身分制度はないし、農民(百姓)でもよいし、工(職人)でも商(あきんど)でもよさそうなものだが武士の心情を選んでしまうらしい。それがプライドと言うものなのかしら、私には分からない。『家柄・血筋にこだわる』というなら『我が家はバリバリの百姓です』と胸を張って主張する人が現れてもよいと思うのだが。尤も百姓や商人には試験などと言うものはなかったはずだから、受験すると言うこと自体が武士への憧れなのかもしれない。それは他人の視線から『称賛』の声を浴びたいと言う、いささか日本人らしい名誉欲や子どもっぽい願望に過ぎない。
本人は自分のプライドから恥を意識し、他人の視線を意識して引きこもっているのだから勝手なのだが、30歳を過ぎるまで、働きもせず、両親の家に隠れ住み、三食食べさせてもらっていて恥ずかしいとは思わないのだろうか。ベネディクト女史によれば、恥を感じるのは民族的特色であるらしいから、よいけれど、そろそろ『何が恥ずかしいのか』を考えてほしい年頃である。
2007.03.23. 西嶋 彰