直言曲言 第184回 「ともだち」
引きこもりから回復するには手順がある。ニュースタート事務局関西では『3つの目標』と言っている。『@友達づくり、A親からの自立、B社会参加』の3つである。Aは最終的な自立の意味ではなく、日常生活において親に依存せず生活すること、つまり親の家から出て一人暮らしや共同生活寮に入ること。Bは仕事をすることである。ただ『3つの目標』で大事なことは@ABの順序を守ることである。3つの目標を達成すれば良いのであれば、順序などどうでもよく、出来ることから始めればよいと思われるかもしれない。事実、親元に同居して、友達もいないまま、アルバイトから始めようとアルバイトに行く人がいる。ほとんどが長続きしないで失敗する。特に友達がいない人は、職場での人間関係がうまくいかず失敗してしまう。
最初に@友達づくり、とあるのだからとても大切なことらしい。しかし『友達』なんて誰でも分かっていることだから気にしない。『友達づくり』 なんて誰にでもすぐ出来ることなのだから、後回しにしよう。たいていの人はそう思う。本人だけでなく、両親もそう思う。実際に困るのは、働かないでお金が稼げないことだから、とりあえずアルバイトに行って欲しい。だけど、アルバイトは長続きせず、また引きこもってしまう。本当に友達づくりというのはそれほど大事なことなのだろうか?どうやら私たちが思う友達と言うのと、ここで言われている友達とは違うのかもしれない。友達とは改めて何なのだろう?
友だちなんて言葉が半世紀程度の間にそれほど意味が変わってしまうなんて考えられない。 しかし友だちを作ると言う行為の実態は随分変わってしまったようだ。昔、子どもであったある人の記憶を頼りに友だちとは何かを考えてみよう。
私が生まれて初めてあった人は母親である。その前に産婦人科の医師とか看護婦とか何人かの人に会ったような気もするが、その後お会いしないので忘れてしまった。とにかく母親というのは、別格でこの人がいなければ現在の私もないような気がする。お腹がすいても、おしめが濡れても、赤ん坊である私のあらゆる生理的欲求はこの人が取り仕切っていた。とにかくこの人がいなければ私は一日も生きていけない有様で、そのうち生理的欲求のみならず、精神的にも100%依存するようになっていて、この人がいなければこの世がないような気がした。お父さんというのがいて、私はいまだにこの人が私とどういう関係なのか分からないが、とにかく母親と共に私のことを最も愛してくれている人の一人だということが分かっている。私のことはたまにお風呂に入れてくれるくらいで、それほど世話を焼いてくれるわけではないのだが、私にとって最も大切な母親が頼りにしている人だということが分かっている。おじいさん、おばあさんというのもいてこれも不思議な存在である。この二人はどちらも私のことをかわいがってくれていて、無償の愛というようなものを感じる。ただし、このおじいさん、おばあさんたちは母親や私たちと同居しているわけではないので、突然長いことあえないこともある。いつも忘れているのだが、会うと満面の微笑で私に接してくれるので、私もついつい身内のような親しさを感じてしまうのである。おばあちゃんは母親の母親だったらしく、私の扱い方は母親よりもうまいときがある。しかしこの人のおっぱいはいくら吸っても出ない。私の勘違いでなければ、確かにおっぱいの香りがして以前はおっぱいが出ていたと思うのだが今は出なくなっている。ひょっとするとあのおじいちゃんが吸ってしまったのかもしれない。
ところで、友だちのことだが私たちの頃は、それほど苦労しなくても友だちは自然に出来たように思う。近頃は『公園デビュー』などと称して1〜2歳の赤ん坊を抱いた母親が、近所の児童公園などに初登場するようだが、これなど『母親の公園デビュー』であって、赤ん坊にとってはあまり意味がない。人見知りしない子に育てる効果はあるかもしれないが、友だちとしての固体認識もないし、後にはすべて忘れてしまっている。母親は、そのうち子育てよりもパート勤務などの方が忙しくなってしまうらしい。
実際に私が友達というのに出会ったのは、3歳の頃だった。私はもう一人で歩けたし、その頃にはもう父親も母親も忙しいらしくて、私の一挙手一投足にはあまり興味を示してくれないので、仕方なく玄関の戸をあけて表に出た。するとそこには、私と同世代の3歳くらいの子から中学生くらいの子までが遊んでいて、私はたちまち興味を引かれた。8歳くらいまでのいわば年少組は比較的おとなしい遊びをしていて、そのうちのひとつはままごとごっこであった。道端の空き地にオシロイバナなどが咲いていて、それをちぎって色水をこしらえ、食事の支度をする。当然最も年長の男の子と女の子がお父さん、お母さんの役で、私たち年少者は子どもの役であった。この子ども役の中にも役割があって、少し賢そうな子はお姉さんの役が割り当てられるが、ボーとしていると年長でも赤ん坊役しか出来ない。異年齢の子どもたちが一緒になって遊ぶのは緊張を要することで、少しも気が抜けないことであるというのは後になって知った。
小さな子どもはままごとをして機嫌よく遊んでいるのだが、中学生を含む年長の子らはそれでは納まらない。そのうち年長の子の一人が声をかける。『鬼ごっこするものこの指とまれ』 この号令は曲者であった。こちらはままごとをしているのだから、鬼ごっこをしたい人たちは年長者だけで勝手にすれば良い。私はそう思ったのだが、実際にはそうは行かない。年長者だけでは人数が足りない。それにこちらで遊んでいる年中組の女の子も彼らの狙いなのだ。こちらに混じっていたお父さん役の男の子が最初に裏切った。年長組の指につかまりに行ったのである。そうするとそれにつれて何人もの子が鬼ごっこ組に参加した。もう鬼ごっこ組は主流派である。『鬼ごっこするものこの指とまれ。早くしないと溶けちゃうぞ。』『この指とまれ』の指の山が溶けちゃうぞ、つまり参加者募集の締め切り告知なのである。その頃にはままごと組の大半も鬼ごっこ組に合流し、残っているのは最年少の私たち2、3人である。これに参加しなければ仲間はずれにされてしまう。今学校で流行っているという『いじめ』というものの原型ではないか?私は思い切って最後の指に飛びついた。最年長の子は満足そうに『高い山崩せ』と指を崩して募集の締め切りを宣言した。『高い山』というのは参加者が多いという意味の勝利宣言でもあった。このように何気ない子どもの遊びや、振舞いの中にも、意地悪や駆け引きの意味が込められている。私は初めての遊び仲間参加の初日から、危うく仲間はずれにされてしまうところだった。
大人社会がどういうものだかまだ私は知らないが、こうして子ども時代の友だちづきあいの中で、様々な生きていく知恵を学んでいくのではないか。近頃では近隣社会というものがなくなって、近所で異世代の子が一緒に遊ぶ姿も見られないという。学校や塾の同世代だけの競争関係で、本当の友だちや友情というものを学ぶことが出来るのだろうか?
2007.02.13.