直言曲言第182回 「そんなに頑張るな」
『引きこもり構造図』(直言曲言第179話『第二次仮説』参照)では引きこもりの若者に多い性格を紹介している。『プライドが高い、上昇志向(が強い)』などだ。『プライドが高い』というのは理解されやすい。顕著な傾向であり、ほほえましい思いで受け止められていることが多いのだろう。しかし、『上昇志向(が強い)』と言うと怪訝(けげん)な顔をされることが多い。思い当たらないというのではなく「『上昇志向が強い』のがなぜ悪いのだろうか」と思うらしい。『上昇志向』が悪いといっているつもりはない。ただそのような傾向が強いのと、あまりある種の傾向がつよいと柔軟性がなくなって自由な思考が出来なくなる傾向があるだけだ。
『上昇志向』といえばその反対語は『下降志向』。私は人生における『上昇』や『下降』そのものについては「批評」しようとは思わない。人間が「努力」をする動物である以上、上昇することは良いことだろうが、すべてがうまくいく時ばかりとは限らない。下降を余儀なくされることもあるだろう。『上昇志向』にしても『下降志向』にしても本来位置からのさらに一歩の方向選択であり、惑いなのだから右に行くこともあれば左へ行く道を選んでしまうこともあるだろう。いずれにしても若い時の方向選択なのだからどちらもあって良いはずだ。『上昇志向』一辺倒というのは少し偏り気味である。面白味にかけると思ったのは私だけだろうか。
上昇・下降とは少し次元の違う話だが坂口安吾という作家に『堕落論』という作品がある。戦後の経済復興や安定志向の世で、人道主義や主知主義の作家が多い中、破滅主義や無頼派を名乗る一群の作家がいた。安吾も大酒を飲み、薬物におぼれたり世の良識派に眉をひそめさせた。真面目であるのは結構なことだがわき目も振らず一直線というのは面白味に欠ける。時には異性に耽溺したり、人生の迷子になってしまうのも醍醐味というべきではないだろうか。
私も高校2年生の頃に一度大きく下降志向にぶれたことがある。私は中学校の頃は優等生一辺倒であったが、高校に入って、親友と言える人にも出会ったし、小説や文学にもおぼれた。文学に傾倒すること自体が、ある種の下降志向であった。上昇志向一方の人は勉強一辺倒であって、その余のことについてあまり振り向かない。その頃、私は学校の定期試験の時期になるといつも徹夜することが多かった。徹夜はするのだが勉強にはならなかった。机の前には座るのだが、いつも何故か『詩』や『小説』を書き始めてしまうのだ。勉強をしたくないわけではなかった。小説を書き始めると、なぜか次々に書きたいことが浮かんできて夢中になり、気がつくと夜の底に青みが見え始め『いけない』と思うのだがもう其処まで来ると『一夜漬け』の試験勉強に戻るよりも小説の続きを書くほうが大事になってしまうのだ。もちろん今の私は小説家になっているわけでもないのだから、それほど大事な小説を書いていたわけがない。その頃の心境を仮託した恋愛小説でも書いていたのだろう。2年生の頃はいつもそんな状態で試験を迎えていたので、成績は惨憺たるものであった。そこそこ上位にいた成績もあっという間に急降下し、2年生の秋の中間試験後には学年450人中ほぼ中間順位に落ちてしまった。ほとんど自分の意志でとった行動の結果だったからあまり驚きはしなかったが、少なからず落胆したのは大学進学志望校の合格可能性予測であった。その頃は(今でも変わらないかもしれないが)『旺文社の模擬試験』というのがあって受験者順位から『合格可能性』というのを判定してくれていた。私は国立某大学の志望であったが、その判定が『合格可能性15%以下』のE判定と出たのだ。AやBの判定だったらどうだったのか忘れてしまったが、E判定というのは『合格可能性はほとんどなく、志望校を変えるべきだ』というものだった。私の家は貧しく、私立大学への進学には望みがないだけでなく、その大学なら父も望んでいたから、私の大学進学の望みはその大学一本に絞られていた。
私にとって『高校生活』の意味をすべてひっくり返すような大事件であったが、私の『下降志向』はなおも改まらず、その年の秋の終わりに私はついに「家出事件」を 引き起こしてしまうのだ。私の所属していたサークルの学外交流活動が発端であった。校長や教育委員会がこの活動に反対し、そのことまでは折り込み済みであったが、私たちを支援してくれているはずだった生活指導の教諭までが土壇場で日和見主義を決めてしまった。信頼していた教師に裏切られた思いの私は『人間不信』に陥り、家出に踏み切った。高校もやめるつもりであった。結局この『家出事件』は短期間で挫折し、私は高校に戻り、無事に卒業し、大学も現役で合格するなど『事なきに終わる』のだが、私の1年足らずの無頼派志向は20代に持ち越したことになる。
人間の『上昇志向』はおそらく生物共有の性格であり、この『上昇志向』があるからこそ人類はその文明を発展させ、繁栄を謳歌してきたのだろう。推察するに遺伝子に秘められた本能が『上昇志向』を目指させるのだろう。しかし20世紀後半からの競争社会の中で、『上昇』するとは、他人との競争に打ち勝つこととの間違った思い込みが刷り込まれてしまったのではないだろうか。他人を追い落とすことにしか上昇の方向性を見出せなくなってしまったのではないか。21世紀になり、日本では『格差社会』の姿が明確になり、ますます上昇するとは、他人に負けないことを意味するようになってしまっている。特に学校教育においては、偏差値が尺度になって人の『上昇』が計られ、それを煽るような教育ばかりが行われてきた。
『上昇志向』のまるでないような人間などいはしないと思う。しかし人間は競争社会の中で、頂点にたつことだけが目的ではないはずだ。世の中に勝ち組と負け組みがいるなら負け組みの苦しみや辛さを知ってこそ、人間としての豊かさや幅が生まれるというものだ。おそらくこのままでは人類の文明というものも先が知れている。持続可能な人類社会の繁栄を目指すなら、上昇志向と同じように、下降志向や負け組みの心情も知るべきだろう。ただし下降志向はあまり長い間浸っていては良くない。それこそ習い性になって、どん底まで転げ落ちてしまいかねないだろう。あなたの人格が未形成の今の時期だから、堕ちて見るのも良いことだろう。その方が却って、上昇することの価値も見えてくるだろう。生まれついての『上昇志向』なんて『格好悪いぜ』。そんなに頑張るな。
2007.1.31.