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NPO法人ニュースタート事務局関西

直言曲言(代表コラム)

合理・不合理

 世の中の出来事や世の中に存在するものはすべて合理的である。世の事象のすべては合理的な因果関係で説明できないものはない。幽霊だとかUFOのように物質の存在様式として説明できないものは信じるわけには行かない。基本的にはそれを唯物論といい、すべて合理的な思考で事象を説明できるとする立場を『可知論』という。私は可知主義者であり、唯物論者を自認してきた。

 しかし人間の知恵には限界があるし未発達のものもある。生命の神秘はいまだ解明され尽くしていないし、宇宙の果てがどのようになっているかについても仮説でしかない。実際には説明できるものもあり、説明できないものもある。可知・不可知で議論するなど無駄なことである。?

 学生時代の私の愛読書に埴谷雄高(はにやゆたか)氏の『不合理ゆえに吾信ず』というのがある。氏は私よりはるかに年配の哲学者であり、小説家でも、思想家でもある。今はもう亡い。『不合理ゆえに吾信ず』というのはアフォリズム(箴言)集であり、詩集と言っても良い。氏が感じた出来事について、短いが的確な論評がしてあった。私がこの直言曲言という小論文の連載を始めたのも、埴谷氏の真似事をしたかったからである。最初にこの書を手に取ったのはもちろん題名に惹かれたからである。世の中には合理的なことを説教したがる人が多すぎる。特に大学というところでは論理や理屈だけが罷り通り、聞いていてあほらしいやら退屈やらこれに過ぎるものはない。特に学生運動の党派間の論争などは国会における論争よりも低レベルで、聞くに耐えない。いかに革命を実行するかなら良いが、『いかに革命を日和るべきか』について延々と論争し、内ゲバまでやってしまうのだからあほらしくなるのである。『不合理』というのは当時、論争をしていても、相手を非難するときの最大の武器であり、相手の論法の中の不合理な点を追求することが、学生運動家の身についていた。そんな『論理』全盛の時代に『不合理ゆえに吾信ず』とまで言うのだから、私が魅力を感じたのも当然かもしれない。

 相手は有名な思想家であり、こちらは一介の学生である。普段は全くの没交渉であるのだが、一度だけ酒場で同席したことがある。高橋和巳という作家が京都大学にいて知り合いだった。彼に埴谷氏を紹介してもらったことがある。どちらも難解な文章を書く作家として当時著名であり、高橋氏は確か『悲の器』という作品で芥川賞を受賞し、埴谷氏には氏の全集や『死霊』という長編小説がある。今でも大きな書店や図書館なら見つかるはずである。機会があれば手にして欲しい。

 合理主義全盛時代だから『不合理ゆえに吾信ず』などという文章に惹かれたというのも理屈に合わない話だが、人間というもの所詮は理屈に合わない存在である。おそらく、昭和20年代とか30年代とか、そんな時代に子ども時代や青年時代を送ったせいなのだろう。
その頃はもちろん戦後の貧しい時代で、国としても個人としても豊かになるために必死の時代だった。金儲けをするには安く仕入れて高く売るなど合理的な行為をするのが一番であった。人間というものは時折、理に合わない行為をする。情に溺れると高く仕入れたものを安く売ったりする。そんな非合理をしていると金儲けはおぼつかない。ところが、この時代は戦後民主主義の全盛時代。民主主義というのは合理主義と多数決を原理とするイデオロギーである。当時から保守主義者は昔の利権や権益を守るために非合理を押し通した。民主主義を守ろうとする側は、必死で論理を振り回し保守主義に反論した。もちろん私自身も民主主義の側の人間のつもりだが、あまりにも合理・論理が横行するので辟易していた。合理主義・論理主義で反論しても保守反動には勝てなかった。保守反動というよりは人々の中にある利己主義であるとか、既存権益を守ろうとする執念には勝てなかった。

 私が合理主義に辟易したり、疑問を持ち始めたのには二つの理由が合った。ひとつは戦後の政治のあり方であった。20世紀においても、大事な政治決戦といわれた選挙は何度もあった。いつも論理的には野党のほうが政治的な主張においては優勢であった。選挙民である国民ももちろん貧しい人が多く保革が逆転しても不思議ではなかった。ジャーナリズムにも左寄りもあれば右寄りもあるが、新聞にしてもテレビにしても基本的には論理を重視しているのであり、合理主義である。ところが選挙が終わると必ず保守系が圧勝していた。汚職事件があっても、選挙違反があっても、反動的な議会運営があってもどうしても自民党が強い。野党側が弱すぎるといえばそれまでだが、彼らは論理だけで保守党に勝てると信じ過ぎているのではないかと思った。

もうひとつ私が納得できなかったのは『天皇制』の問題であった。私が反体制主義者であるのと無関係でもないが、人間は生まれながらに平等のはずである。天皇も戦後の『人間宣言』を待つまでもないが一人の人間である。何ゆえ天皇は生まれながらにして特別な存在として崇められているのだろうか?おまけに第二次世界大戦においては、多くの民衆が天皇の名において戦争に刈りだされ、そして殺された。その天皇が何の戦争犯罪人の咎も受けず、むしろ最近では皇室崇拝の風潮は高まるばかりである。日本は未開の封建国家のように非合理な王権国家でもなく、神の国でもないはずである。人々は合理的な判断だけで生きているのではないようである。

スローワークというのは、私たちが引きこもり支援を通じて労働の意味を考えたときに、行き着いた結論である。日本が高度経済成長を続けていたとき、休日出勤やサービス残業や過労死など不幸な働き方をする人が多かった。勤勉であることを否定するわけではないが、ハードすぎる働き方は人間を不幸にする。論理的な思考ではないが、私たちは直感的にスローワークの正しさを信じた。しかし、引きこもり青年たちにはスローワークというスローガンないし立場はなかなか理解されなかった。私がスローワークを主張したとき彼らは『スローワークの正しさは判るけれど、相手がハードワークをしているのに、こちらがスローワークでは負けるのではないですか。スローワークではちゃんとした時間給は貰えるのでしょうか?』と反論した。なるほど、勝ち負けの問題か。またしても合理主義で反論されてしまった。私は口の中で無言で『不合理ゆえに吾信ず』とつぶやくしかなかった。

合理主義が正しいのか、不合理でも信じるのか?私の中でまだ結論は出ない。だが自分が信じることの出来る道を行くしかない。(直言曲言177話)

2006.11.20