昭和30年代後半
昭和35(1960)年6月日米安保条約改定反対の声は日本中に満ち充ちていた。国会周辺を埋め尽くした14万人の怒号が先頭の全学連の一団とともに国会南門に押しかけていた。東大生・樺美智子は警官隊と衝突して死亡。安保闘争初の死者となった。 一方昭和34年の三井三池闘争は大量解雇に端を発したが石炭から石油のエネルギー政策の転換や,戦前からの下請けや差別労働の歴史などを含む熾烈な闘争であった。ここでも暴力団によるスト破り襲撃は直接白刃に倒れるという犠牲者を出した。私は34年の三井・三池、35年の安保闘争、36年の釜ケ崎暴動を、昭和30年代における三大民衆蜂起と考え、これを指導し得なかった前衛党指導部を以後信じないようにしている。
第一次釜ケ崎暴動は昭和36(1961)年8月3日の午後に始まった。8月の暑い日であった。狭くて暑苦しい釜ケ崎のドヤ街の夜は、寝苦しく何かが起こる『予感』に満ちていた。前日の8月2日、東京の山谷(釜ケ崎と同じく労務者の寄せ場とスラムの街)で暴動が報じられていた。予想通り3日午後、新世界から釜ケ崎の入り口に当たる東田町交番の前で事件が起きたとテレビが伝えていた。交通事故の被害者が、まだ死んでいるのか生きているのか判らないのに、交番前にむしろを掛けたまま放置されているのだ。それを目撃した労務者たちが騒ぎ出した。釜ケ崎では行き倒れ(行路病者という)など珍しくなく、警察官も当たり前のように筵をかけたまま事務手続きを行っていたのだろう。普通の場所なら交通事故は救急車を呼ぶなり、たとえ被害者が死んでいたとしても死人を路上に放置したりはしないだろう。
集まってきた人々の怒号は『俺たちの仲間を人間らしく扱え』だった。周りを囲んだ労務者 たちも昨日の山谷暴動の知らせに気が立っていた。周囲はあっという間に多数の人に囲まれ、やがてその中から1個のこぶし大の石が投げられ、東田町交番のガラス戸を割った。 その激しい音に、人々は興奮し、投石のアラシが始まった。 警察官は驚いて、交番の奥に逃げ込み、同時に西成署に『救出』を依頼した。西成署から出動した一個小隊は、東田町交番から警官を救出したが、その時警官が振るった警棒の嵐に人々の怒りはあっという間に釜ケ崎中に広がった。あちらで投石、こちらで放火騒ぎと、不穏な行動は連鎖した。釜ケ崎をはみ出した暴動は、新世界の入り口である地下鉄動物園前駅前のパチンコ店の大きなガラス戸も割っていた。普段、労務者や住人の扱いが悪いと思われる店舗などが狙われた。あそこの質屋、こちらの食堂などである。
昭和33年『不就学児一掃運動』に拾われ中学生になった私も、昭和36年4月には学区で一番といわれた進学校の高校一年になっていた。暴動発生の噂は私にも届いていた。学校では優等生の私だが、スラムの暮らしに慣れていた私も、もともと警察は嫌いであった。生徒手帳など身許を明かすようなものは置いて出かけた。夜になって暴動の第二の現場は『西成警察署前』になっていた。西成署の前は『西成銀座』といわれる旧住吉街道の中心地、幅員8メートルほどの広い道路であった。人々は西成署を遠巻きにした。夜になって、散発的だが投石がはじまった。『俺たちを人間的に扱え』という合言葉だけは人々に伝わっていた。警察側は西成署の扉を堅く閉めて静まり返っていた。西成署を包囲する人の数は約500。警察側の沈黙が続くと、包囲の人数は次第に増え、包囲網は狭まっていく。署の2階や3階から覗いているのであろう。時折、乱闘服に身を包み、ジュラルミンの盾と警棒で武装した一隊が西成署の玄関から飛び出してくる。くもの子を散らすように逃げ出す包囲隊。警察側は深追いせず、数十メートル追い払うだけでまた西成署に逆戻り。何度目かのいたちごっこが繰り返される。やがて通りかかった乗用車がわなにかかったウサギのように、ひっくり返され放火される。気勢のあがる群集側。群集は、追いかけられれば散る。旧住吉街道からは、100メートルほど逃げれば阪堺鉄道の軌道敷がある。高架ではなく、3メートルほどの盛り土の上を走っているので、追いかけられればたやすく逃げ込める。暴動が始まって以来電車は運行を停止している。軌道敷だから、投石用の石を調達するにはもってこいである。両手に大きな石を手にした人々は、また西成署に対する包囲網を縮める。
ついに警察側は大阪府警に出動を要請。装甲車や警備車を連ねた府警機動隊が登場、釜ケ崎と隣接する町の間の幹線道のあちこちに規制線を敷き始めた。釜ケ崎は6,000人の機動隊に逆包囲された。600メートル四方程度の釜ケ崎は3箇所程度の拠点を防衛し、10人程度の警邏隊に巡回されてしまえば、鎮圧されてしまうのである。釜ケ崎の群集は私も含めて、釜ケ崎の中に住んでいる。包囲されてしまえば家に帰って寝るだけである。3日の夜は静まった。 4日は、朝から警察の警邏隊が巡回した。街角に10人もの人が集まっていると、警邏隊が『解散』を命じる。4・5人程度が立ち止まって話しているだけなら、警察も手出しが出来ない。昨日の発端となった事件が『俺たちを人間らしく扱え』という合言葉で始まったことを、釜ケ崎の人々も警察側も誰もが知っていた。うかつに住民を刺激するわけには行かない。
釜ケ崎のあちこちで10人以下の不穏な集まりが無数に始まっていた。夕方になると私は出かけた。きっと今晩もどこかで暴動が始まるに違いない。西成警察署裏側で人だかりとわめき声が聞こえる。私はすばやくそこに近づいた。上半身裸の男が、何か喚いていた。やくざ者が3人、白鞘の白刃を抜き放って振り回している。ヤクザも警察との戦いに立ち上がったのかと思った。釜ケ崎ではヤクザも身近にいる。覚せい剤の売人も、公営賭博のノミ屋も近所のおじさんおばさんであり、暴力団の手下であった。彼らも、警察の敵であり、我々の味方であると思っていた。 後に流行った東映のやくざ映画ではないが、任侠道の男たちも反権力・反警察の世界に生きていると思っていた。男の一人の背中には鮮やかな般若の刺青があった。肌はつやつやとして美味いものを食いつけていることがわかった。ニコヨンやアンコ(いずれも日雇いの肉体労働者の別名)たちの肌は不摂生で日焼けして、時に野宿をするので黒くくすんでいる。ヤクザ者のとは比べ物にならなかった。近づいてみて驚いた。彼らヤクザ者が白刃を振り回して脅かしているのは労務者であった。「お上にたてつくものは俺が相手だ」と労務者たちを脅していた。三池の暴力団も労働者の敵であった。西成警察のすぐ裏側である。労務者たちが10人も集まれば、すぐに蹴散らそうとするのに、日本刀を抜いて暴れるヤクザを警察は放置していた。
それでも夜になると暴動は再燃した。今夜は警察は最初から強硬方針であった。群集といっても烏合の衆である。釜ケ崎の労働者はほとんどが非組織労働者であった。機動隊に追われれば、抵抗するよりも逃げ惑うものが多かった。マグネシゥムライトに照らされた機動隊の青い乱闘服集団は恐ろしく見えた。強力な水圧の放水車も初めての体験であった。何よりも怖いのは私服刑事だった。群集は非組織労働者の群れであるから、群集同士には知り合いは少なかった。そこに目をつけた西成警察は、大量の私服刑事を動員し、またその噂を広めた。警察と対峙しながら、投石をしていても隣にいるのが私服刑事では、何時逮捕されるかもわからない。2日目の暴動はたいした盛り上がりもなく、やがて潮が引くように鎮圧された。但し、その後も数日の間、不穏な空気は続いたし、その後数年間、夏になると暴動は釜ケ崎の年中行事や風物詩のようになった。
しかし、釜ケ崎暴動は三池や安保と同様に、まだ残っていた戦後の混乱の香りを残して、高度経済成長の中に巻き込まれていった。
2006.10.01.