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NPO法人ニュースタート事務局関西

直言曲言(代表コラム)

公と私

 こんな経験をしたことがあるだろう。ホテルの廊下などを歩いているとprivate と書かれた小部屋を見つける。トイレなどを探していると間違えそうになるのだが、たいていはリネン室であったり従業員控え室であったりする。ホテル空間である場合、比較的わかりやすいのだが、町のレストランであったり居酒屋であるとprivateととは一体なんだろう?と言うことになる。ホテルやレストランでお客様の利用する空間をpublicとすればprivateはすなわち『私』つまり『お客様立ち入り禁止』と言う意味であろう。小用などで急いでいると、考え方が自分勝手になりやすくつい誤解してしまう。便所はなるほどprivateな空間だからprivate はトイレのことかな?と思ってしまうけれど公衆便所なんて言葉もあるけれど?

 日本と欧米では公と私と言う言葉の感覚は違うようだ。日本で公という言葉を使うと、どこか『おおやけの』と言うニュアンスが強く、転じて『お上の』とか『政府直轄の』と言う意味にとられがちである。どこか堅苦しくて、近寄りがたい。公務、公用、公的年金とか公儀隠密とかの言葉もあり、いずれにしても一般人・庶民には近寄り難いもののような印象がある。実際にはパブ(パブリック・バー)公衆浴場・公園などの言葉があり、誰もが利用できるという意味であるが、官製のというニュアンスが強く敬遠されがちである。ホテルでも(お客様の)誰もが利用できる空間と区別して、privateなどと表示してあるのだろうが、我々には通用しにくい。

 公と私という感覚は日本人独特の『恥』と言う感覚も含んで、独特の歪みをもっているように思う。昨今流行の核家族に限らず、大家族の昔から、日本では家族内のことは『私』家族外のことを『公』と考える慣わしが強かった。従って『私』(家族内)のことを家族外に公表することは恥だとして、日本流のプライバシー(私的情報秘匿権)概念が成立していた。尤も、大家族と言う不連続の連続のような家族関係など、本人が大事に思っている限りの家族関係であり、そこに遠心力が働くようになれば他人も同然になり、共同利害として秘匿すべきプライバシーなどなくなるのである。核家族は、大家族の封建性・保守性を克服しようとしたのと、経済的必然性、労働力再生産の場として戦後、特に都市を中心に急拡大した。団地やマンションの増加など家屋形態も核家族の増大を後押しした。コンクリートの箱で密閉した閉鎖空間は、家族の密閉性をますます強化した。家族間の結びつきは強く、他人が容易に入り込めない。大家族が不連続の連続のように、地域社会と緩やかな結びつきを繰り広げていたのに対し、核家族は団地のコンクリートの箱のように家族単位で画然と区切られ、地域社会から孤立させられている。

 大家族制度の弊害は見えやすかった。戦後の近代化や工業化社会になじみにくいのも明らかであった。農家の次男坊や三男坊には農地改革で零細化された農地を相続することも難しかった。都市や都市近郊には大規模工場が新設され、労働力は大都市へと吸引されていった。企業は労働力を極限まで搾り、家族サービスや地域の相互サービスまで商品に代替させるようになった。親や家の桎梏から解き放たれた若者たちは、結婚して核家族を形成する。大家族や家父長制を嫌悪しながらも、新しい戸籍筆頭者として自らが作った家庭を溺愛するようになる。それは『絆』と言う名の家族愛であり、同時に家族を縛る綱でもある。

 今年も民法の系列局での『24時間テレビ』と言うのがあった。チャリティがいけないとは言わないが、あの押し付けがましさはいただけない。今年のテーマというのがあって、いつも変わり映えがしないように思うが『絆(きずな)』だという。絆の事例らしきものが示されるがヒューマニズムのお手本を見せられるようで耐えられない。『絆』というのは、家族や親しい人々が生活していて、互いに支えあっている、目には見えない糸のようなものであると思う。しかしこうしたところで声高に語られると『絆』というのは愛の証として相手に求められるようなものに感じてしまう。『絆』などというものは見えない、見る必要も無い状態が望ましいのではないだろうか。

 人々の地域における助け合いや、コミュニティ生活が希薄なものになればなるほど、家族だけが頼れる、頼りになる存在として貴重なものに思えてくる。そうなると家族以外の人はますます遠ざけられ、家族にとって守らなければならないプライバシーといったものはますます貴重なものになる。プライバシーの秘匿権を否定するわけではない。プライバシーとは何かについて、十分に考えてほしい。人間としての個の尊厳というものはある。個の尊厳を蹂躙するような秘匿したい情報は尊重すべきである。しかし、家族内では誰もが知っているありふれた情報まで、プライバシーという秘匿権を盾にとって他人に知られたくないというのは、単なるわがままであるように思う。情報を秘匿することによって、他人はそこから内側には入れず、その人の孤立はますます隔絶されたものとなる。

 Privateはいまや家族とほとんど同義語になり、家族が重視されればされるほど個の尊厳や価値というものは従属的なものになっている。例えば、上級の学校へ進学するかしないかも家族の誇りにするのは良いが、時には家族の権威を守ることになったり、責任になったりする。引きこもりの若者の中にも、自分が受験に失敗したり、進学できなかったりしたのは親のせいだという人がいる。東京大学に進学するには、中学時代から私立に進んだり、塾や予備校に通ったりしなければならないが、自分は公立中学へ進まされたという。確かに今の進学状況と親の経済力は関連性がなしとはしないが、そこまで自分の進学意欲の問題を棚にあげて、親のせいにしてしまえば、人生の問題はどうするのだといいたい。人生の問題すら、親のせいにして、俺をこんな風にしたのは親の責任だし、俺は生きていても仕方が無いし自殺する、と親を困らせる人がいる。確かにこんな子に育ててしまった責任の一端は親にもあるのかもしれない。しかし、自殺をするという子をなだめて生き延びさせても子どもの人生に責任を持ったことにならないだろう。

 個の確立のためには一定の時期に突き放して、家から追い出すような覚悟が必要だろう。いつまでも家の中に囲い込んで、共同利害や共同幻想の中に閉じ込めると、本当の意味での人間との、社会との共同利害の共有者にはなれないのではなかろうか。どこかでprivateとしての家を捨てて、publicとしての社会の免疫をつけさせてやるべきであろう。

2006.08.31