大衆化と現実化
私達がひきこもり問題の支援や相談を始めてから7年8ヶ月になる。この間引きこもり問題の本質は不変で、私の引きこもり問題に対する見解も変わっていない。
しかし引きこもり問題が万古不変で『真理は永遠に変わらぬもの』などと考えているわけではない。今の梅雨時に美しい紫陽花(あじさい)の花ではないが、土壌が酸性になれば赤い花が咲き、アルカリ性になれば青い花が咲く。つまりは、土壌の環境次第で花の色は変わる。社会環境が変化すれば、引きこもりもかわってくるのである。8年近く引きこもりの若者を見てきて、最近やっと『引きこもりも変わったな』と実感するようなことになった。
それは引きこもりの『現実化と大衆化』である。それはひとまずおいておいて、私たちは『引きこもり』を語る際に、『引きこもり』の95%以上に該当する性質を引きこもりの『定義』、80〜90%に該当する『性質』を『引きこもり』に普遍的(ありがち)な性質、50%程度以下を良くある性格だと呼んでいる。
それらは、私が引きこもりの父母と面談する時に用いる記録(カルテ)によるもので、一枚一枚を計算したわけでもないので、あくまでも概数によるものでしかない。「学校に行かず、あるいは就職していない」などというのは『引きこもり』の定義に属するものである。「人間不信、対人恐怖」というのも、ほぼ『定義』といって良いものだと思っている。「醜形恐怖、潔癖症」などの神経症症状は「良くある」性質ではなかろうかとおもっている。この中で、私が引きこもりに良くある性質だとおもっていたことに「代償欲求願望」というのがある。
それは「中学や高校などで勉学から落ちこぼれてしまった子」や「不登校などで事実上、上位の学校への夢を断たれてしまった子」などに「ミュージシャンになる」とか「サッカー選手になる」とか「ゲームクリエーターになりたい」などの夢を語る子が多かったことである。中には「ボクサーになる」とか「哲学者になる」あるいは「資産五千億の大金持ちになる」という子もいた。これらは勉学の夢を立たれた子が別の道で「いっぱし」の夢を達成しようというもので、少し「非現実的」な側面はあったが「微笑ましい」夢でもあった。
「非現実的」というのは、彼らの夢を馬鹿にするのではないが,「ミュージシャン」になりたいという子は楽器一つ触れるわけではなく、ストリートミュージャンの経験もなかったからである。サッカー選手になりたいといっていた子は実際にブラジルに行ってオーディションを受けたし(残念ながら不合格で、その後夢はあきらめたらしい)ボクサー志願の子はジムに通っていたがその後デビューをしたといううわさを聞かない。
ありそうもない夢、あるいは現実化しそうもない夢を語ることによって、自身の勉学における「挫折」を正当化し、自身の「プライド」を守ろうとしたのであると思っている。最近こういう夢を語る子にめっきり会わない。引きこもりは160万人いるといわれているし、私が面談した引きこもりの親は数百人に過ぎない。これをもって統計的にこうした人が「減った」とも「増えた」ともいえないが、私の印象はこうである。 近年、大学の進学希望者が増え大学の『大衆化』や『遊園地化』が言われているが『引きこもり』にも『大衆化』や『カジュアル化』が浸透してきたのではないか?
最近『例会』に参加したあるお父さんはこんなことを言っていた。『私の息子は100人中50番以下である。50番以内に入れるように努力しろといっても<できない>という。引きこもりではないか?』という。私は二つのことを言った。『あなたのお子さんは100人しか入れない進学高校に入った.決して劣等生ではない。』『100人の人がいれば51 番の人もいれば99番100番の人もいる。51番以下の人が全員引きこもりだというわけではない。』お父さんは自分の言おうとしたことの真意が伝わらないのに少しいらいらしているようすであったが、その場に居合わせた若者は全員が納得していた。引きこもりは言うまでもなく学校の成績の問題ではない。ましてニュースタート事務局は『補習塾』ではない。
引きこもりというものに対する世間の理解が変わりつつあるように思う。『引きこもりは病気ではない』は私が必死になって主張してきたことである。そのことはほぼ常識化しつつある。代わって引きこもりの拡大解釈や誤解が増えてきた。一つはNEETという言葉の普及と誤用である。NEETは英語で『就労または就学していない、あるいは職業訓練中でもない』という意味に過ぎない。これを厚生労働省や東京大学の一部の先生は『引きこもり』に代わる言葉として普及させようとした。
残念ながら引きこもり問題にかかわる一部の人たちもこの陰謀に無自覚にも引っかかり、『引きこもりとは、学校へも行かない、就職しようともしない』単なる怠け者だという理解が広まった。これでは『若者自立塾』のような単なる就労斡旋教育が大手を振ってまかり通るようになる。行き過ぎた自由主義経済とその社会的な悪影響を一掃してしまうチャンスが失われようとしている。
私達が『引きこもり』問題に取り組み始めた頃『17歳少年による犯罪事件』が頻発した。17歳前後の少年を子どもに持つ親たちは恐怖した。17歳ではなかったが『酒鬼薔薇聖徒殺人事件』や『西鉄バスジャック事件』『新潟少女長期監禁事件』等々。これら一連の事件に関連性があるかどうかは分からないが、世の親たちは『正体不明』な『引きこもり』であるわが子がこのような『凶悪』な事件を起こさないかどうか心配した。
私が「『引きこもり少年』は優しくて、気が弱くて、賢明で…」とある種のキャンペーンを張ったのも、父母たちのこうした無用の心配を払拭するためだった。事実『引きこもり少年』達は気弱で(自殺する)度胸すらなく、とても凶悪事件の犯人になどなる心配はなかった。
『気弱で、優しくて、賢明で、プライドの高い』と今でも『引きこもり』少年の特性の説明書に私は書いている。それはある意味で『実現不可能』なような「夢」を抱きつづける少年に私が抱いたイメージであった。それは大人たちの想像力の及ばない世界であった。いまや『引きこもり』は大衆化し、現実化した。大人たちの言う『怠け者』や『もう一歩の努力の足らない人』になってしまったのだろうか?これでは大人たちの想像通りの『無気力』な大人になってしまうのだろうか?
私は『引きこもり』達を『聖域』として大人たちから隔離して『美化』してしまうつもりはないが、自分たちが作り出した『だらしない社会が』が生み出した『鬼っこ』である『引きこもり』を自分たちの常識の範囲内で『卑俗』なものとして『解釈』してしまうことには断固として反対する。