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NPO法人ニュースタート事務局関西

直言曲言(代表コラム)

怒りと絶望

引きこもりの若者と言えば、就職問題の挫折、例え14,15才と言えども将来の就職に向けて、過酷な競争社会に入ることを決意させられる。激しい競争社会では友達もライバルであり、競争相手である。そのことから来る対人恐怖や人間不信が人間関係の経験不足を生み、やがて引きこもりにつながる。多くの引きこもりを診てきた私は、殆ど例外なく原因はこれだと思ってきた。あるいはこの状態から来る様々な神経症、極端な吝嗇症。引きこもりの原因は殆どこれに尽きる。そう思ってきた。しかし最近になってもうひとつ大きな原因があることに気づいた。それは、人の心に潜む争いの意識である。実話をひとつ紹介しよう。

この春、ニュースタートの寮生が一人旅立った。長く第一種の引きこもりだったI君は、レンタルお兄さん(NSP=ニュースタートパートナー)の訪問を受けて数年ぶりに自宅を出て共同生活に入った。日に日に元気を取り戻し、ニュースタートと提携関係にあるNPO法人Fの『若者自立塾』に入った。そこでも元気に過ごしたI君はあるところで農業生活に入ることを決意した。

ニュースタート事務局関西もNPO・FもI君を祝福し、勇躍旅立ったI君だったが、その農場主からある宣告を受けた。『これからはニュースタートもFのことも忘れて、うちの流儀で頑張りなさい。』この人は、特にニュースタートやFに対して『敵意』を持っているとは思えない。ニュースタートは若者の引きこもり支援の、Fは障害者福祉や特に精神障害者の社会復帰支援の旗印を掲げる団体である。

その農場主は、そうした団体の理念や理想とは無関係であるから、『うちの団体の理念に添う形で頑張って欲しい』と言っただけであろう。残念ながら、I君としては昨日まで信頼して付き従ってきたニュースタートやFのことを、否定されたと感じて『こんなところで働くことは出来ない』と感じてしまって、彼の仕事体験は『挫折』してしまった。

『訪問活動』を続けているといろんな人に出会う。ある若者はニュースタート事務局の活動理念も理解し、友人作りの意義もよく理解していると思えるのに、親が勧める『鍋の会』参加も『共同生活寮』の入寮も頑として受け入れようとしない。親の発言や態度に何か問題でもあるのではないかと考えてみた。親は、社会体験もあり、こちらのは話も分かる良識派である。 子どもに対して無理な押し付けをするような親には見えない。ただひとつ疑問に思える点があった。それは他の引きこもり支援団体や精神科医に対する、頑なな否定的態度であった。ニュースタート事務局に対しては幸いなことに肯定的な態度であった。それはそれで良いのだが、なぜこれほどに他団体に対して『否定的』であるのか分からない。

妙なことを言うようだが、引きこもりの支援団体に決定的な『優劣』などあるはずが無い。引きこもりについての捉え方に『間違い』があれば別だが、現実に引きこもりの若者と接していれば、その『理解』に大きな違いなどあるはずが無い。後は、若者同士を交際させ、友人関係を作ってやればよいのであって、難しい『技法』や代表者の能力など関係ないのである。 それが、この親には他団体を否定し、ニュースタートをべた褒めすると言う妙な癖がある。残念ながら、私はこの親のこの癖が、若者に『大人不信』を生んでいるのだと気づかされた。

つまり、他団体を否定し、ニュースタートを褒めるのはこの人の思い込みである。とにかく、あることを信じて、他のことを否定しなければ安寧に生きていくことは出来ない。そこに特別な論理的根拠があるわけでないから、親の意見が子どもに説得力があるわけではない。結局は『ニュースタートが良い』と言うのは親の思い込みであり、子どもにとっては押し付けられた論理にしか過ぎない。

考えてみれば世の中にこんなことはざらにある。たいしたことではないのだが、自分の論理に固執し、他を否定することはよくある。家庭内や親子間では何の異論もなく、常識的な意見として通用するのだが、引きこもりのようにコミュニケーションが断裂し、親の意見に容易に同意しないような場合、こうした思い込みや決め込みは大人の身勝手にしか思えないことがある。こうした論理を押し付けようとする親に対しては徹底的に反抗しようとする。

大人としてもどうしても、批判しなければならない事柄については、批判する理がある。それほどの理がありもしないのに、身内の意識で簡単に合意してしまうのには気をつけたほうが良い。 最近では日本と韓国の間で竹島(独島)の問題がある。1905年の日韓併合の時に領有を宣言したのだから、とか日韓併合自体が国際法違反なのだからとか、双方の主張に正当化の理屈はあるのだが、私などにとっては根拠が分からない。最近になって、韓国では対馬も韓国の領土である、との主張がなされているようである。 対馬については現実に日本の住民もおり、『市』もあり、『朝鮮通信使』を遇した歴史的事実もあるのだから『日本領土』としてよいのだろうが、領土権などどこに根拠があるのかと問われれば分からなくなる。地球上のどこにも国境線など引いてあるわけではないのだから…。

一方で対馬どころか、沖縄や九州を自国の領土とされても『止むを得ない』かなあと思うことがある。かつて日本は『朝鮮半島や台湾・満州』までも事実上の領土として占有していたのである。常識や良識を前提にするなら考えられない論理である。関東軍や一部の軍部の【独走】などとはいえない。当時の日本人のすべてが、当然のこととしてそれを認めていた。

当時の新聞を見ても、それに疑問をはさむ論調など見当たらない。 『沖縄・九州』まで他国の領土として認めるかのような発言は許されないであろう。当然ながら、世間での家庭内の対話では『沖縄・九州』は当たり前に日本の領土であり、『竹島』もまた日本領土であると言う主張が多いであろう。しかし日本のアジア侵略の歴史を考えれば、全く予想もつかない『領土権』の主張もありうるのだ。

私達が普段何気なく繰り返している主張の中には、『当然の論理』と考えて、真剣に検証したりもしないようなこともある。『ニュースタートやFのことなど忘れて…』と言った農場主にしても、それほどの『悪意』などなく、何気なく言ったことばに違いない。

しかし言われたI君にしては、自分のそれまでの人生を否定されたような『怒り』を禁じられなかったのだろう。人はなぜ他者を批判して、自分を正当化するのだろう。批判が正しいのか、間違っているのかの問題ではない。とにかく、他者を批判しなければ自分を正当化できない、と考えていることが哀しいのだ。引きこもりの若者の言動に首をかしげる前に、自分の主張に無理が無いか反省してみてはどうだろう。

2006.05.10.