親が子に遺すもの
親という生き物は子どもに何を遺せば良いのだろうか?
生物としての欲望から言えば,より多くの子孫を残したいという願いがあるだろう.しかも,それは可能な限り《自分》という個体に類似した生き物を永遠に存続させたいのかもしれない.クローン人間づくりは倫理的に許されないが,案外,人間というわがままな生き物にとって究極の願望なのかも知れない.
遺伝子レベルでの継承を別にして,自分が生きてきて獲得した知識や技術や財産など,自分の親から継承したものも含めて,可能なものならそっくり我が子に継承させたいというのも,人間としての基本的な欲求に分類されるべきものなのかも知れない.
若者の『引きこもり』という現代社会病理は,社会システム構造の問題であるとともに,人々のそれに対する適応不全――社会構造の問題としては《機能》不全――の問題でもある.
文明の親子間(世代)継承――もう少し一般的かつ大げさに言えば人間の時系列的な文明の継承――が,リニアには進展せず,ときに蛇行し,ときには後退するかのように<気まぐれに>推移することも,思わぬ社会病理の拡大をもたらす.
親は自分の子に<より良い『生』を生きて欲しい>と願うことはほとんど疑いようがないが,早い話が,そのためにより多くの資産を子どもに残そうとしても,社会システムがある程度それに歯止めを掛ける.例えば相続税のシステムである.これはある意味で『日本型社会(民主)主義』の特徴でもあるが,同時に『子孫に美田を残さず』式の教育観をも引き継いでおり,ものや財産の形で子どもに継承させようとしても,高い相続税率がそれを許さない.そこそこの資産家でも,子どもが一生働かななくても食べて行けるほどの資産を遺すというのは困難である.
東南アジアから中東にかけての沿岸部の国々を旅すると,街中にはやたら貴金属や宝石類を商う店が多い.これは欧米の金持ち婦人が宝飾品を身につけるのとは明らかに異なる習慣に支えられている.
戦乱や社会変動の中で生きる人々にとって,信頼できるのは土地や家屋敷ではない.とりわけ故国を捨てて流浪する華僑の人々にはこの傾向が強く,金製品をありったけ身に付けていて,お金にゆとりができれば新たに金を買い足すのである.
流浪の民であったユダヤ人にも,この傾向があったのだろう.19世紀の中ごろまで,ヨーロッパの主要都市にはゲットーという,ユダヤ人居住区があり,商いや交易が認められてはいたが,ゲットーの指定居住区以外には住めなかったり,永住権が認められていなかった.
ユダヤ教という非キリスト教信仰を持つ彼らは,さまざまな戒律で自らを縛るとともに,永住権や不動産という形で子ども達に財産を継承できない代わりに,交易などで得る財力を生かして高等教育を受けさせ,生きる力を与えようとした.
こうした不安定な社会では,親というものは,何とか子どもに身分や資格や教育という形で自分の財産を継承させようとする.これは何時の世にも共通する親の心情だろう.幕末期の日本でも,寺子屋などの民間教育ブームが起きており,富裕商人ばかりでなく,貧乏士族やいわゆる町人層も子どもに教育を与えようとしたようである.
20世紀後半の敗戦後という時代に,焼け跡から無一物で生活を築いてきた日本人も,たとえ親自身が,十分な貯えや資産といえるほどのものを持っていなくても<子どもに教育だけは>つけてやろうと考えてきた.
それが,高度成長期の経済的ゆとりを背景に,大学進学率を上昇させ,受験戦争という過熱した競争を生み出してきた.一方で,学閥や就職試験などにおける『指定校』などが《学歴社会》を助長し,昔の大宅壮一氏風に言うと《一億総上昇志向》といった風潮が生み出された.もちろんこうした《学歴主義》が教育立国や教育立県などの政策と結びつき,経済成長や金満国ニッポンを支えてきたのも事実であり,一概に悪い点だけを指摘するのではない.
引きこもりのご相談に見える親御さんに,『おそらく,あなたのお子さんは《まじめ》で《優しく》て,しかし,《プライドが高い》でしょう』と,引きこもりの一般的特質を指摘すると,『会ってもいない子どものことがなぜ分かるのか?』と,驚かれる.
ついでに,『《上昇志向が強く》て…』と付け加えると,これもほとんどの親御さんが頷かれるのだが,この行きすぎた《上昇志向》なるもの,わが子の哀れと思ってはいても,自分たち親が『せめて教育だけは付けさせてやろう』と押し付けてきたものだと自覚される人は,ほとんどいない.
いや《それがいけないのだ》などと言うつもりはない.高校進学率は95%を越え,大学進学率さえ50%に成らんとする今日だから,大学に行かせて学歴社会から落伍させないというのは,ほとんどもう親達の《常識》のようになってしまっているのである.《常識》なら良いのだが,《信仰》にまで崇め奉られていると言っても良い.
親の信仰なら子どもがまたそれを崇めるのは悪くもないが,そのために心に傷を負い,社会に背を向けてしまうのは明らかに行き過ぎだ.親としては,そんな大げさな押し付けをしたつもりはないのだが,子どもの心には呪文のようにしっかりと焼き付けられてしまっている.
1867年,ユダヤ人は平等の政治的権利を獲得するのだが,それ以後も正統派ユダヤ教徒として旧来の信仰を捨てず,厳格な戒律や儀式を守る人々も少なからずあった.正統派ユダヤ教を信じる両親になじめないユダヤ教徒の子ども達もいた.過酷な競争や受験勉強,あるいは刻苦勉励,勤勉実直な旧来ニッポン人的徳目になじめない今どきの若者たちと同じように,経済的繁栄の成果と自由だけを享受する若きユダヤ人の登場であった.
日本では親たちの過去の呪縛や信仰に縛られない,フリーターやパラサイトシングルの大部分はその類である.
しかし,一方で無意識の内に家族の態度に同化してしまい,親の呪縛から解放され得ない一群の若者がいる.目標の見えない上昇志向に囚われる引きこもりの若者たちである.
最近の若い人を見ていると,『学歴社会』病だけでなく,『資格社会』病というのもかなり根深い.自動車免許,英検○級,簿記○級,ワープロ検定あたりは入門編といったところで,情報処理,秘書検定,旅行業取扱主任など《資格》の種類は上げればキリがない.
先日も20代の可愛い女性が,宅建免許や危険物取扱主任の免許まで持っているというので驚いた.本人は大真面目で『今の勤め先をリストラされても,ガソリンスタンドや不動産業にいつでも就職できる』とおっしゃる.要するに,今必要なのではなく,将来必要になるかも知れないという『不安』が資格獲得に走らせるらしい.こうした『資格』が一つ一つの仕事の免許なら,大学の卒業証書はゼネラルな『社会人免許』の意味を持つのだろうか?
引きこもってしまった若者が,そこからの脱出過程で,何らかの資格を持つために勉強を始めるのには反対しない.しかし,新聞や雑誌の広告欄を見ても,そんな特殊な資格を要求するような求人広告はほとんど載っていないし,逆に《資格取得》を勧める講座の広告ばかりが幅を利かせている.
資格取得ブームの背景は就職不安症候群であり,華僑やユダヤ教の親たちの懸念や不安に共通したものを持つ.戦乱からも遠ざかり,飢えることの実感的な恐怖からも程遠いにも拘わらず,親たちの心の中には貧窮や飢餓の記憶が消えていない.
癒されるべきは,引きこもりの若者ではなく,未だに残る親たちの心的外傷(トラウマ)なのかも知れない.
親が子に遺してあげられるのは,怨嗟のような上昇志向や紙切れとしての資格ではなく,すこやかな身体,しなやかな筋肉,おおらかな笑顔,そんなものではないだろうか.
(5月30日)