思い込み
『神経症』ってほとんどが『思い込み』の結果だと思う。『錯覚』であろうと『確信』であろうと本人の思い込みの結果である。『神経症』だといわれる以上、本人の確信は『現実』ではないのである。『現実』ではないのに『現実』だと確信するのだから『思い込み』といわざるを得ない。私たちの人生には、この『思い込み』や『錯覚』と思えることが多い。
私たちは『引きこもりは病気でない』と主張している。病気=精神病ではないという意味である。引きこもりが問題になり始めた初期に引きこもり=精神病と誤解する親が多かったからである。今では『引きこもりは病気ではない』と主張したことを後悔している。『病気ではない』=『健康である』=正常であると誤解する当事者が多いからである。
『引きこもり』は『神経症』の『合併症状』である。ということは、引きこもりとは『現実』ではない事柄に対する思い込みが重なって社会や人間に対する拒否症状が続いていることを意味する。こうなると『思い込み』とは人間の思考営為の中で=よくないこと=『否定』的なものと捕らえているように聞こえるかもしれないが、必ずしもそうではない。
引きこもりとは『社会システム』の不適合だと指摘しているが、そこまでは正しい。しかし、折角正しい分析に到達しながら、結論として引き出される行動が『引きこもり』という否定的な行動であるために、次に『引きこもり』を『正当化』するために=『神経症』=思い込みにならざるを得ないのである。こうなると引きこもりという思い込みに対して、否定的な見方をせざるを得ない。
代表的な『神経症』の一種に『醜形恐怖』がある。自分の顔が<人並み>外れて醜いと思い込んでしまう錯覚である。醜いのだから、整形手術でも受けないと人前には出られいと思い込んでしまう。「目が細いから」とか「ほほが薄い」からと整形手術を受ける人はいるが醜形恐怖の人は具体的にどこが醜いというよりは、心理的な思い込みであるのだから、実際に手術を受けても治らない。
それにもかかわらず『醜形恐怖』から整形手術を受けてしまう人はいる。顔形は変わるかもしれないが、本来思い込みによるものであるから満足感が得られるはずはない。満足感は得られないままになんとなく「こんなものか?」と納得してしまう人がいるから始末に悪い。大手術を受けて、満足するのは『神経症』や思い込みによる錯覚だけというわけである。
『醜形恐怖』と似たようなものに『自己臭恐怖』というものもある。口臭や体臭を含めて自分が悪臭の発生源であると思い込んでいるのである。臭いというのも目に見えるものではないし、普通は『測定装置』(ガスクロマトグラフィ)というものも身近にはない。本人がそう思えば、容易にそれを否定する材料はない。引きこもりのような『症状』と結びつかない限り『醜形恐怖』であれ『自己臭恐怖』であれ、他人に迷惑をかけるような病気ではないので、人知れず悩んでいる人は多い。引きこもりの原因にまでなるかどうかは別として意外と蔓延している神経症である。
『醜形恐怖』だからといって顔の美醜についてばかり悩んでいるとは限らない。身長の長短、頭髪の濃淡、太っている、痩せすぎている。その他なんでも神経症つまり思い込みのタネになるらしい。たとえば、頭髪の濃淡であれば若白髪や禿頭の悩みである。たとえ、はげ頭であっても、周りの人が気にしていないのに本人だけがやけに気にしているのは妙なものだが、それほどでもなくて周りの人はほとんど気がつかない。
あえて言えば「濃くはないか」という程度なのに本人は深刻な薄毛の悩み。親に高価な鬘までねだって、それでもまだ悩んでいるさまは滑稽でさえある。背が低いという悩みも深刻であるらしい。「息子さんの身長は?」とお聞きすると「1m70cm以上あります。」という。この手の悩みは基準があるわけではないから、何cm以上なら悩む必要なしと明確に言うことができない。ただ、多くの人にとって贅沢な悩みであるだけである。
『醜形恐怖』と『自己臭恐怖』についてだけ取り上げたが、思い込みによる劣等感についてはこの限りではない。『自分は鈍足である』とか『声が小さい』とか『頭が悪い』とか、何でも他人と比較して、自分は「能力が低い」と思い込んでしまう。話をしている状態は正常である。だから、つい、まともな悩みだと思い込んでしまい、話を聞いてしまう。聞き取れないほど声が小さいのかと思うと、そうではない。職場に大声の人がいて、いつも活気がある。その人のようになりたいのだという。
ひとそれぞれに個性というものがあり、能力差もある。他人の能力にあこがれて、目標ににしたり努力することはよいことである。だが、何でもかでも他人の持つものをほしがってはきりがない。こんな風潮はいつごろから始まったのだろう。なんでも金を出せば買える。天から与えられたものであろうが、生まれついてのものであろうが、金を出しさえすれば買える。そんな考え方が親にも子にも当たり前のものになってしまっていないだろうか?
引きこもりに対する世の誤解に対して散々悪口を言ってきた私が、誤解を恐れずに言うなら、引きこもりというのは『何でもほしがる贅沢病である。』自分が『万能であり続けねば許せない幼児病である。』 生まれついての己が能力には限界がある。だからそのまま我慢をしろというのではない。『大きくなりたい』『強くなりたい』『賢くなりたい』などと願望するのは人の常である。そのためには『自分は大きくなるのだ』『強くなるのだ』という思い込みが必要だろう。思い込みは、常に成長の母である。
思い込みをすれば、それにふさわしい努力をする。努力をしても報いられないときに、どのようにするのかが問題である。もともと自分にはない能力だし、努力をしても得られなかったのだから、諦めるべきである。努力をして得られなかったときに、己が不幸を嘆いたり、親を恨んだりするからややこしくなる。あなたが万能でないように、親もまた万能であるはずがない。あなたの顔を突然一晩で、美しくすることなどできるはずはないではないか?人生には奇跡など起きるはずはないのだから、思い込みによって一歩一歩努力を積み重ねていくしかない。
2006.01.27.