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NPO法人ニュースタート事務局関西

直言曲言(代表コラム)

他人を信じること

NPO法人=特定非営利活動法人なんて活動をしていると自分自身は少しも変わっていないのだが、少し真面目なったような気がする。というか、周りに善意の人が多いというか、独善の人が少ないというか、他人をあまり疑わないので、自分も他人をあまり疑わず少しずつ偉くなってきているような気がする。そんなはずはないのだが、だんだんと世の中よい人ばかりのような気がしてきて、人を疑ったりすると、申し訳ないような気がしてくるのだ。

ところが、NPO法人といえども資本主義社会の中で生息していく以上、夢みたいなことばっかり言っているわけには行かない。一人前に人も疑(うたぐ)るし、皆が自分と同じように善意を信じている人ばかりとは思えない場合もある。当たり前のことなのたが、少し前までは大阪でシンクタンクの社長をやっていた。シンクタンクといえば聞こえのよいように思う人もいるが、要するにものを疑うことのプロである。普通の人なら「こんなものだろう」と妥協をしてしまうところをもう少し考えて「別解」を見つけてしまう。その「別解」による経済効果の分け前をいただくのである。

経済効果の分け前などたいしたことないだろうなどと思う人はお金儲けはできない。お金は常に現在のシステムを疑うことによってしか稼げないからである。何しろ経済効果がある程度大きいと想定できる場合にしかシンクタンクなど利用しない。以前はバブル経済などで土地利用は大きな利益を生み出す可能性があった。行政改革もまた古いしきたりを温存していたので大きな改革効果を挙げる可能性があった。そんな時シンクタンクにお呼びがかかった。だからその当時のわれかわれからすれば疑う余地のないものなどなかったのである。

疑うことしかしらなかった私の前に、ひたすら人を信じようとする人が現れた。それがニュースタート事務局代表の二神能基である。疑うことを知らないなんていうと,「あほ」みたいだが、なんていうのか自分の信じたことをひたすらやり続けるのである。それまでの自分とまったく違う生き方に出会ったのである。若者の生き方に賛同して世の親を罵倒するなんてまったく得な生き方とは思えない。何しろ若者は一せんもかねを払ってくれない。しかも二神は私を誘っておきながら、損だ得だとは一言も語らない。私にも生きていく術は必要だが、そのことを一言も語らない。最初数年は社長兼任のまま、その後忙しくなって専任になっても「いままで兼任でやってきたの。ふーん?」といったきりである。

専任になってしばらくは人に支えられながら何とかやってきたのだが、それに疑義を言い出す人が出で来た。いろいろと耳を傾けてみたのだが結局は金銭の損得にかかわることだった。われわれの主張に一定程度傾ける耳を持っているのだが、いざとなると自分が経済的な不利益をこうむるのはいやなのである。そこで別解を求めることになる。別解はあるのである。しかしシンクタンクのように大きな利益はない。まして共同で分配できるような大きな利益などない。利益を分配できないとなると疑義をいい出す価値もない。やがて沈黙するようになる。

「疑義」を言い出す人は少なくない。ただ、そのような人の基本的な共通項のようなものが見えてきた。こういう人たちの共通項は俗世間でもある程度のことをやってきた人で、しかも俗流にすっぽりと染まってしまうのでなくて、それなりに抵抗をしていた人だ。抵抗の論理を持っているのだから、ただ単に「成功」すればよいとは思っていない。しかし他方で半分は資本主義社会の論理に漬かっているから「自己責任」という観念からは逃れられない。引きこもり本人は「努力」というものを「放棄」しているように見えるから嫌いだ。

昔「ニュースステーション」という番組に解説者として出ていた朝日新聞の解説委員が引きこもりの「特集番組」で『引きこもりは贅沢病だ』といって顰蹙(ヒンシュク)を買ったことがあった。『そんなことは分かっている。』というのが大方の受け取り方で「贅沢」と分かった上で深刻な『引きこもり』対策を問うているのに朝日の解説者という立場が「贅沢」という「別解」を示さざるを得なかったのであろう。知識人が別解を示したがるのはよい。しかし私たちは愚直に正解のひとつを実践しているのである。そんなところで別解を示してみて気を引いてみられるのは困るのである。知識人なり、実践家にはそれなりの『プライド』があるから、ひとつの『解』だけを示されて皆がそれに従うというのは我慢ならない。かと言って、すべての解を並べて比較研究をするほどのゆとりはない。だから「あれだけが答えじゃないよ」と嘯(うそぶ)くのである。

これもひとつの「疑いをさしはさむ」というやつである。NPO法人などというものは、一種のユートピアみたいなものであるから、疑いをさしはさみ始めたらきりがない。「なぜそうでなければならないのか?」問い詰め始めれば答えがないのである。あるルポライターが言っていたが「引きこもり支援のNPOの代表は皆、酔っ払いのカリスマばかりである」と。なるほど損得計算のできる素面ならNPOなどやらないだろうし、カリスマなら「なぜそうでなければならないのか?」などという面倒くさい説明などする訳がない。そこに訳知り顔の知識人が『別解』など示して何になる。「脱引きこもり」の支援集団など掃いて捨てるほどあるだろう。引きこもり支援の「正解」など団体の数ほどにあるはずだ。現に私と同様な理論展開などしている団体は他にないし、それはそれなりの成果をあげているのだ。だから「引きこもり支援」など「一人一党」であり、「やりたい人」がやればよい。「やれる人」がやればよい。他人のやり口に不満を述べて別解を示しているなど「勿体無い」のである。

NPO法人は非営利活動法人であり、最近ではそうとも限らないらしいが、もともと営利に適さないからこその法人である。そんな法人と最初から承知の上だからこそ、低い人件費を承知の上で人が集まる。もちろんNPO法人だからといって低人件費で人をこき使うことなんて許されない。ただ、そうした善意の人の集団にいると段々と善意を集めることが得意になってきて、大きなイベントでも何でも善意でやりこなそうとする。お金を集めること、ましてや自分のためにお金を集めることなど段々下手になるのである。

2005.12.07.