『原則』としての『不信』
引きこもりの若者に共通する克服課題は『対人恐怖』『友人拒絶』『人間不信』である。前の二つは、長期の引きこもりから来る一種の神経症的な状態であり、私たちの活動への参加によって簡単に克服できるケースが多い。『鍋の会』に1、2度参加するだけで嘘のように神経症的な症状が雲散霧消してしまうこともある。これは思春期から始まる引きこもりの結果、人間体験が希薄でありその不安が『対人恐怖』や『友人拒否』を引き起こしているのであり、経験不測を補う『鍋の会』などへの参加が劇的な変化をもたらすのである。
一般的には、元々素直で真面目な若者が多い引きこもりは、『対人恐怖』『友人拒絶』の克服が『人間不信』の払拭をも伴うのだが、こちらの方は必ずしもうまくいくとは限らない。というのは『人間不信』の方は引きこもりなど若者特有の現象とは言えず、人間関係や人間体験の不足が原因とは言えない。
ベテランの人間、つまりは中高年や老人の中にも根強い人間不信を持つ人は少なくなく、むしろ『人間』を長くやってきたがゆえに人間不信になってしまったと思える人さえいる。これはなかなか克服されない。 人間関係が不慣れで、つまり人間を良く知らないが故の不安感が『不信』になるのは素朴で回復しやすいのだが、人間を良く知っているが故に『不信』感を持つのは、身に付いた確信的な感情で、よほどの人間改革をしなければ不信感を信頼感に転換できない。 そもそも人間同士が『信じあう』とはどういうことを言うのだろうか。
生まれたばかりの赤ん坊は、母親の存在を全面的に信じている。ある意味では母親の側も、自らの無償の愛を信じているのである。利害関係を意識しない子ども時代からの親友も互いを信じあっている。大人になり、利己心(エゴ)が芽生えてくると『信じる』という行為も、純粋な感情の発露とは言えなくなってくる。『信用』というのは『信じて用いる』意味であり、『信頼』というのも『信じて頼る』のである。つまり『信じる』のは『用いたり』、『頼ったり』という利己的な行為の前提に過ぎなくなっている。
しかし人間が日常的な共同生活を送る上では『信用』や『信頼』関係を抜きにしてはほとんど不可能であり、いちいちそれが利己的な意識を前提にしているなどと考えているわけではない。 かつて人間が、安全に生き延びるだけでも大変だった時代には、人間同士の信じあう関係は、今よりももっと大切で切実であった。戦友たちは命を守りあう関係であった。命綱を預けあう労働仲間も合った。水利組合が田畑の共同利益、つまりは生きて行く上で共通の糧を守った。それが『信頼』であり、『信用』であった。
今の社会では『信頼』や『信用』などという関係はほとんどが、人の生死を分かつような深刻な関係には登場してこない。先般のJR事故のように、実は電車に乗ったり、飛行機に乗ったりと言うのは、生命の安全が保証されているという暗黙の『信頼』や『信用』の上に成立している『契約』関係なのだが、それらは日常的にはほとんどが慣行的に行われている関係であり、電車に乗るたびに改札口でその『信頼』や『信用』を確認していない。
今日では、『信用』や『信頼』という言葉を口にするのは、ほとんどが経済的利害が規定している場合ではないか。だからこそ逆に『人間不信』もまた、経済的な利害の『敵対』の可能性を前提とした『不信』なのである。『可能性』を前提にして『不信』が芽生えているのであるから、その可能性を全面否定するような『信頼』や『信用』は生まれにくいのである。なのになぜ?
日常的に『信頼』という言葉が頻繁に使われたり、信用金庫だとか信用保証組合だとか『信用』という名を冠した組織や機関が多いのだろう? 『信用』や『信頼』とは、実は『不信』を原則とした関係なのである。
近代社会は、さまざまな『契約』を前提にして成立している社会である。先ほどの電車に乗ったり、飛行機に乗ったりと言う行為も『安全が保証されている』という暗黙の契約の上に成立している。税金を払うと言う行為も、国家によって生命・財産・平和などの安全が保証されることによって成立している『契約』関係である。ただし、こうした『契約』は国家や社会によって慣行的に補償されている関係だから、国民一人一人が国や警察や交通機関と契約書を交換して結ぶ契約ではない。
それでは一人一人が契約書を結んで行う契約とはどんな場合に行うのか。お金を借りる。ローンで物を買う。保険契約を結ぶ。不動産の賃貸借契約を結ぶ。たいていの場合、個人対個人、個人対法人の場合であろうと保証人、あるいは連帯保証人が連署して契約が成立する。契約を結ぶことによって取引が成立する。契約主体になることは、ある意味でその人の社会的信用が保証された証だと言える。
しかし、冷静に考えてみれば、契約書を交換するという行為は、根本的には信用されていないことの証であり、契約とはまさに『不信』を原則とした取引関係なのである。 信用の証であるはずの『契約書』を交わしてお金を借りていた場合、信用されているはずであるから、もし期日までに返済できない場合でも、少しは待ってもらえるのだろうか?そんなわけには行かない。金を借りていた人は、今度は別の人や金融機関から新たに借金をして、最初の人に返済しなければならない。『契約書』(『借用書』)が存在する限り、出るところへ出れば、公権力が強制的に債権者の権利を債務者に対して執行する。『契約書』とは、つまり最終的には公権力に委ねるという誓約書であり、つまりは信用などしていない『不信』を前提にした契約なのである。
人が本当に信じている人にお金を貸す。借用書を書けと迫ったりしない。たとえ期日までに返してもらえないとしても、それは不幸にもその人がお金を返す能力がなかっただけのことである。『いいよ、いいよ、いつでも返せるときに返してくれれば』中にはこんな善意の人もいる。しかし、こんな人が誰でもすぐに信用して、お金を貸していたりすれば、破産してしまうのも目に見えている。だから『契約書』が必要になる。つまりは、この社会は『人間不信』を前提に成立している。
問題はこの『人間不信』の種をどこまでも撒き散らして蔓延させていくのか、それともそれを抑制して信じあえる人間関係を広げていくのかである。 若者は、一般的に大きなお金の貸借などしていない。つまり、お金を返してくれるかどうかで、人を疑ったりする必要はないはずである。しかし、社会的な経験を積み、お金を貯めて成熟していくとともに『人間不信』の種が膨らんでくる。そこで経済的利害のやり取りには『契約書』が必要になってくる。 大金ならともかく、少しのお金なら返済を期待したりせず、上げてしまえばよいのではないか。そこに互酬の精神もあり、ボランティアの心もそこにあるような気がする。鍋の会の奉仕も、カンパもそれであり、契約書も記録もない。
2005.05.09.