致死的退屈症
ミヒャエル・エンデのファンタジー小説『モモ』を読んだことがありますか?今年はエンデの没後 10年ということでエンデ関係の評論等が出版され、エンデが改めて評価される年になりそうです。私たちの仲間でありNPO法人ワーカーズコレクティブ・サポートセンター理事長の境毅さんも、書肆心水という出版社から来月(2005年3月下旬)「『モモ』と考える時間とお金の秘密」というタイトルの評論を出版されます。『エンデの遺言』という本が地域通貨の教科書になっていることから、この『モモ』の中に散りばめられている自由主義経済批判を読み明かしていく本で、大変分かりやすく意義深い書物です。一読をお勧めします。
この『モモ』というファンタジーは自由主義(資本主義)競争の中でワーカーホリックになっていく人間を時間とお金の争奪戦という寓意で描いた小説で、時間貯蓄銀行を名乗る時間泥棒である<灰色の男たち>と『モモ』という不思議な少女の戦いを描いています。この小説のすぐれた点は 寓意の中で、未来を鋭く予言していることであり、30年ほど前に書かれた小説ですが、既にこの小説の中に示された予言がいくつも的中していること驚かされます。
この『モモ』の一節の中に『致死的退屈症』という言葉が登場します。その一節を少し長くなりますが引用します。モモの味方であり、時間の守り主である<マイスター・ホラ>がモモに語ります。
「はじめのうちは気のつかないていどだが、ある日きゅうに、なにもする気がしなくなってしまう。なにについても関心が持てなくなり、なにをしてもおもしろくない。だがこの無気力はそのうちに消えるどころか、すこしずつはげしくなっていく。日ごとに、週をかさねるごとに、ひどくなるのだ。気分はますますゆううつになり、心の中はますますからっぽになり、じぶんにたいしても、世の中に対しても不満がつのってくる。そのうちにこういう感情さえなくなって、およそなにも感じなくなってしまう。なにもかも灰色で、どうでもよくなり、世の中はすっかりとおのいてしまって、じぶんとはなんのかかわりもないと思えてくる。怒ることもなければ、感激することもなく、よろこぶことも悲しむこともできなくなり、笑うことも泣くことも忘れてしまう。そうなると心の中は冷え切って、もう人も物もいっさい愛することができない。(中略)そうだよ、こうなったら灰色の男そのものだよ、この病気の名前はね、致死的退屈症というのだ」
この表現はいわゆる「アパシー(無気力症)」の人たちの無感動やしらけのことを表しているということが出来ますが、これに出社拒否の症状を付け加えれば、いわゆるうつ病患者の症状とぴったり一致します。対人恐怖や友人拒絶の後遺症を付け加えれば引きこもりの症状そのものだと思わないだろうか。つまり、エンデはうつ病や引きこもりの大発生を予言していたのです。しかも日本固有の現象であるといわれる、30年後の東洋の島国のできごとを。
ここに登場する灰色の男達は、人々を致死的退屈症に誘い込もうとする一種の悪魔ですが、彼らはまず時間を貯蓄させようとして、時間を節約して働き、金儲け優先の人生観をモモに吹き込みます。
「人生でだいじなことはひとつしかない。それはなにかに成功すること。ひとかどのものになること。たくさんのものを手に入れることだ。ほかの人より成功し、えらくなり、金持ちになった人間には、そのほかのもの――友情だの、愛だの、名誉だの、そんなものはなにもかも、ひとりでに集まってくるものだ」
ここでは明確に、友情や愛よりも、お金や物を優先する拝金主義の思想が表されています。それこそが致死的退屈症に陥れるための入り口なのです。ところで、皆さんのお怒りを恐れながらも、私はここで灰色の男が語る人生観が、引きこもりの若者たちの考え方と極めて酷似していることを恐れているものの一人であることを告白しなければなりません。ただし、これは引きこもりの真っ只中にいる人に限られた考え方で、そこから一歩でも踏み出しかけている人には当てはまりません。
ところで、私は近頃の若者達がよく口にする『うざい』という言葉が大嫌いです。これは恐らく『うざったい』という言葉の短縮形で『うんざりだ』という意味を含む言葉だと思います。この『うざい』という言葉を聞くと、私自身の気の弱さもあって『お前なんかうんざりだ』といわれているような気がします。つまりコミュケーションを拒否されているような気がして、自分自身が気落ちしてしまうのと、同時にその若者がコミュニケーション不全に陥って、孤立の世界に引きこもってしまうのではないかと哀れになるのです。
『うざい』という特殊な言葉に限らず、例えばなにかにつけて『つまらない』という態度を示す若者にも同じことを感じます。でも、一方で若者がなにもかも『つまらない』という気持ちを持っていることは、よく分かりますし、強い共感と同情を感じてしまいます。『うざい』『うざったい』『うんざりだ』の気持ちも同じことだと思います。この気持ちこそ、致死的退屈症の言語的表現ではないでしょうか?希望も目標もないのに、友情や愛を排除して受験勉強押し付けられたり、優等生であることを強制されるのはうざったいことです。なにもかも拒否して、引きこもってしまいたくなる気持ちはよく分かります。
しかし、私は引きこもりは致死的ではないと思っています。どこかに、かすかな希望を隠し持っているのです。致死的であるなら、それは病気であり、本当の死に至るかもしれない病気です。少し旧聞に属しますが、こうした致死的退屈症の集団がいたことを思い出します。麻原彰晃という人物が率いていたオーム真理教というカルト教団です。そういえば、彼らも私が引きこもりの若者に感じるのと同じ『真面目で、頭のよい』若者達ばかりでした。彼らも、世の中のうざったさに耐えかねて出家し、麻原のハルマゲドンという致死的な終末思想に乗せられる形で殺戮に走ったのです。『うざったい』『うんざりだ』『つまらない』と感じるところまでは、引きこもりの若者も同じだし、かくいう私も同じです。むしろ、この社会の陳腐化した競争のシステムを『つまらない』と感じないで、競争の果ての拝金主義社会にどっぷりと首まで浸かっている人こそ、エンデの言う致死的退屈症に陥る人なのです。
われわれには希望があります。引きこもりには、わずかな希望が残っています。それは競争ではない、共生。お金のための就職ではない、天職(ミッション)探しです。ただし、それは黙って引きこもり続けていて見つかるものではありません。それは頭の中で考えていて、見つかるものではありません。不思議な少女モモは、不思議なカメのカシオペイアの『ハナデ トビラニフレナサイ』の忠告に従って心の花で人々の心の扉に触れました。
それはおそらく、灰色の男たちの『ひとかどのものになること』という呪文を解いていくことになるのでしょう。
2005.02.27.