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NPO法人ニュースタート事務局関西

直言曲言(代表コラム)

視線の悪意

私自身がさまざまな視線に晒されてきた。侮蔑の視線、嫌悪の視線、敵意の視線…ときには自分自身意識もしていないことに対する羨望の視線や嫉妬の視線も含めて…。人は、さまざまな思いを込めて他人を見る。<見る>こと自体は五感のひとつであり、認識の手段であるから、好意も悪意も含めてニュートラルな行為である。しかし<見た>瞬間ないしはその後には、行為主体の経験や感覚も踏まえた<感情>がその視線に表れる。「見られた側」も往々にしてその視線を見返すことになるので、相手の視線に含まれる<感情>を読み取ることになる。この視線に対するアレルギー的な反応のひとつを「視線恐怖」と言い、引きこもりに多い「神経症」の一つである。

「視線恐怖症」という症状名がついている以上<正常>の状態でないのは確かだ。別に悪意を秘めているわけでもない、何気ない視線に出会うことすら彼らは<恐怖>を感じてしまう。しかし、彼らが<恐怖>するのを、私はまったく<根拠なし>とは考えることができない。今の時代、見知らぬ他人に対する視線には、訳のわからぬ<険>(けん:けわしいこと)が含まれていることが多い。駅や車内や道端ですれ違う他人にさえ、意味の無い敵意や不信感を丸出しにした視線を投げかける人が多いからである。

現代の競争社会は、社会全体が貧しく富を求めて、一直線横並びのスタートを切った昔とは違って、既に一定の豊かさの中で自足しながらも、人より多くの富を求めての争奪戦の様相を呈している。資源(例えば正社員の地位にしてもそうである)は有限であり、他人より一歩でも早く手にしてしまわなければ「負け組み」に落とされてしまう。そんな意識が蔓延している。だから他人を非難して、いち早く非難する側と非難される側の優位・劣位の位取りをしようとする。視線の悪意には無意識だがそんな競争意識が隠されている。

都市の過密社会では、単なる隣人でさえ利害敵対者になってしまう可能性が高い。騒音だ、振動だ、悪臭だ、日照権だ…。どんなことでももめごとの原因になりうる。別に問題が発生していなくても、新しい隣人が引っ越してきたらハリネズミのように神経を尖らせて、隣人の気配に神経をそばだてている。此れでは、何か不都合が起きると必ず敵対的な関係になってしまう。

街角においても同じことである。何かの勧誘を受けると、別に自分に必要の無い勧誘であれば、断ればよいだけだと思うが、詐欺商法でないかと疑う。これも疑わしいものは、断ればよいだけなのであるが、この手の<商法>は通例<おいしい>話で釣ってくるので、単に断ることもできない。得をするチャンスを逃してしまうのではないかという<助平根性>がある。こんな人が往々にして詐欺に引っかかる。ますます疑心暗鬼になり、疑う必要の無い人まで疑う。こうした疑心暗鬼が人と人との視線を冷たくし、心と心を隔てて行くのだろう。

視線とは言えないが、悪感情を態度で示す方法として「しかとする」というのがある。教室などで特定の子どもをグループで無視するなどいじめの手口である。いわば仲間に入れてやらないという、教室内「村八分」である。私など言葉の意味さえ知らなかったのだが、いじめの流行とともになんとなく理解した。一説には花札の絵柄の中で鹿が後ろ向きに顔をそむけているので、無視することを「しかと」するのだという。いじめと言っても、具体的な暴力行為ではないので先生にとがめられることもない、頭脳犯的いじめであって何とも冷酷な仕打ちである。子どものころからこんな態度で人と接することになじんだ人にとって、悪意の視線を投げかけるのは得意技になってしまうのだろうか?この言い方だと、子どものころの習慣が大人になっても影響を残すことになるのだが、おそらくは大人社会の冷酷さの鏡として、教室内でのいじめが流行したのだろう。しかし、引きこもりにとっては、いじめそのものが引きこもりの原因ではないにしても、その体験や見聞の記憶が視線恐怖として残ってしまう。

視線恐怖の根底には「対人恐怖症」がある。原因を問うても仕方がない。室内犬を外に連れ出すと、他の犬や人間を怖がるのと同じである。要するに対人経験が乏しく、攻撃されるのではないかと思い込むのである。しかし、さきほどの室内犬や赤ん坊が人見知りしたりするのと違うのは、マイナスの社会体験が作用している点である。

例えば、家庭や学校で教え込まれる「他人に迷惑をかけてはいけない」。過密社会の基礎的な倫理であるが、これを無意味なほど過剰に教え込まれると「対人恐怖」にならざるを得ない。「他人の迷惑」を過剰に意識すれば、他人との距離を取り、他人と接触しないようにするのが必然である。高度経済成長社会とともに成長し、都市化社会とともに都市の混雑の中で生きてきた大人からすれば当たり前のことのようだが、生まれたときから核家族の密閉家庭で育った若者には他人との関係の免疫性がない。 免疫性どころか、本人が『視線の悪意』の病原菌そのもののような大人(親)には、若者の悩みや苦しみは理解できない。だから、我が子の『視線恐怖』が病的なものとしか映らない。

しかし、免疫のない若者には『視線の悪意』の棘(とげ)は外出するとブスブスとわが身に刺さってくる。殊に、自分が住んでいる近隣社会の視線は遠慮がない。実際には、視線を投げかける近隣住民には悪意がないのだけれど、悪意と<無関心>の見分けがつかない若者にとっては、見られているという意識だけで、苦痛であり、時に錯乱状態に陥るのである。若者にとっては、昔の村落共同体のように、監視されているような意識に苛まれ、ときには『監視』されていると言う『妄想』が肥大化し、精神科医が『統合失調症』(旧・分裂病)と誤診してしまうケースも見られる。

しかし、私はこの<妄想>は必ずしも根拠のない<妄想>とは考えない。確かに、考えすぎであり、明らかに<神経症>といえる病的な状態であるが、根底には現代人の<人間不信>にもとづく、悪意の視線があるのは事実であり、経験不測でナイーブ(素朴なさま) な若者にとってこの仮想の<悪意>に包囲されるのは耐えられない状態であり、精神病的な病症とは考えない。

 

残念ながらこの『視線恐怖』を克服する<特効薬>はない。あえて言えば他人の視線をできるだけ意識しないことである。視線を意識しないと言っても、目を閉じたり、うつむいてしまうのは良くない。うつむいたりしてしまうと、却って余計に意識することになり、その視線に負けてしまうからである。視線恐怖と似た状態に乗り物酔いや船酔いがある。これも『乗り物酔い』の経験や状態や意識すればするほど酔い易くなる。慣れが大事なのだが、比較的酔いを避ける方法として、近くのものを見ずに、ゆっくりと流れる遠方の景色を見ることだという。他人の視線を感じたら、視線そのものを見ずに、そちらを見たままで遠方の景色に目を移すことだ。  それよりも無意味に悪意を含んだ視線を投げかけるような社会を改善することが必要なのだが…。

2005.01.14.