逡巡
引きこもりの若者にはすべてに『逡巡』するタイプが良く見られる。『逡巡(しゅんじゅん)』とは、何時までもぐずぐずとためらっている様子のことで、『引きこもり』そのものが『逡巡』している状態のことだと言える。事務局にファックスやメール、あるいは電話でイベントや会合などへの参加申し込みがある。初めて参加する人は、ファクスやメールでは率直に、電話だとほとんどがもじもじした様子で、『あのー、ひょっとすると当日用事ができて参加できなくなるかも知れないのですが…』こういう人の約半数は、当日ドタキャン(土壇場でのキャンセル、無断欠席も含む)になる。申し込み段階で、自分がドタキャンする可能性を予測していて、『参加できなくなる』ことを予告しているのである。
彼らは、この種の会合に何度も参加申し込みした経験があり、その都度直前に迷いが生じたり、会合で孤立したり、恥をかく場面を想像して恐怖感を抱いてしまう。結果はドタキャンせざるを得ない。これを繰り返していると、本当に自分に自信が無くなり、申し込みをすること自体を躊躇ってしまうようになる。勇気を奮って申し込んでくれているのだから、その勇気を持続させて参加してもらいたいと思う。そのためには電話の受け答えにも気を使う。この手の電話に応答することの多い事務局長I君など心得ていて『良いですよ!特に予約の取り消しなどしなくても』と応える。相手の気持ちを慮る名人である。 何度もイメージトレーニングをしたり、状況シミュレーションをして、もし自己紹介を当てられたりしたらどうしょうか?などとさんざん考えあぐねて来る。『逡巡』を絵に描いたような様子だが『案ずるより生むが易し』で、二度目の参加からは『参加します』とすっきりした申し込みになる。
多くの人と接していると、ものごとを最初に『肯定』的に捉える人と、何でもまず『否定』的に捉える人がいることに気づかされる。こちらは『逡巡』するタイプとは反対に、反射的に否定したり、肯定する。人物であれ、出来事であれ、課題であれ、世の中に存在する事物であるのだから『肯定的』に捉えても良いと思えるのだが、とりあえず『否定』してみる人が多い。とりあえず疑問符『?』を付けて見るというのは、懐疑主義あるいは悲観主義といえる現代人の哀しい性(さが)だろうか。 いきなり、きっぱりと否定されるものだから、これは確信をもった『拒絶』だろうと思っていると、必ずしもそうではないケースが出てくる。あとで『逡巡』するのである。
とりあえず反射的に『否定』『拒否』『拒絶』するのは『対人恐怖』から抜け切れていない人の特徴的行動である。ときには、向こうから歩いてくる人が何か尋ねたそうな素振りで近づいてくると、質問を受ける前に顔の前で手を立てて横に振りながら、相手の接近を避けようとしている。人との関わりを避けようとしているのである。顔見知りの間柄であっても、何か頼まれごとをされそうになると、用件に関わらずとりあえず『できません』と来る。『できる』か『できない』かを考えて判断する前に、『面倒なことに巻き込まれたくない』と言う心情がいつも発動されており『私のことは放っておいてください』という意思表示の変わりに『できません』という言葉を発してしまうのである。
いつもこんな態度の人には、こちらもそれほど面倒なことを話し掛けたりしない。たいていは『チョッと楽しいことへのお誘い』であったり『ごく簡単な仕事の依頼』であったりするのだが、すると数日してから『この前のお話…やってみようかと思います』となる。それほど『逡巡』するほどの話ではないのだが、彼にとっては『拒否』をしてから、数日間、思い迷って結局『自分にとって不利な提案ではない』と結論付けて最初の『拒否』を修正してくる。
こういう人たちには、大げさに言えば根底的な『人間不信』の感情が潜んでおり、他人からの提案をとりあえず『拒絶』することが習性になっている。ある意味では現代は『人間不信』の時代であり、すべての人が多かれ少なかれ『人間不信』に陥っているといえる。引きこもりの若者の場合だと、むしろ人間体験、社会体験が浅いため『人間不信』になるほど人間体験を積んでいない。手痛い裏切りや背信行為にであった経験もない。それにも拘らず人は『嘘をつく』『騙される』という警戒感が非常に強い。学校や家庭で『人間不信』を刷り込まれている、いわば『二次被害』のケースが多い。
『人間不信』が『競争意識』と結びつくと、常に誰かに『騙される』のではないかという疑心暗鬼に苛まれる。 確かに世の中には、嘘をつき、人を騙すことを職業にしているような人もいないではない。詐欺師と呼ばれる。しかし詐欺に引っかかる人はたいてい、その被害者も儲け話やおいしい話に目がくらんで、結果的に騙されて大損するというケースがほとんどである。善良な市民としての暮らしをしていて、こういうおいしい話に見向きもしない人にとっては、詐欺師などは一生お目にかかることもないし、係わり合いになることも無い。多くの若者たちが、社会体験も少ないのに『騙される』ことを極度に警戒するのは、たいていは親たちが、あるいは学校の先生たちが、自ら詐欺に引っかかったり、あるいは身近な体験として、そのような騙され話を知っているからである。
わずか15年程前、日本人の共通体験として土地や株価が短期間の間に何倍も何十倍にも値上がりするとい『バブル経済』を体験した。一攫千金の夢を実現した人も、逆に虎の子の財産を失ってしまった人もいたのである。現在の『人間不信』の時代とは、こうした『バブル経済』や『詐欺商法』横行の時代の『後遺症』といって良い。バブルに踊った人たちではなく、そんな狂乱経済を目撃した人たちのこどもや生徒が、ある種の強迫神経症とも言える『人間不信』の『二次被害』に陥っているのである。 確かに人の悪意や詐欺的行為に引っかからないために、『逡巡』することや、とりあえず『拒否』することは、ある意味でわが身を守る生活の知恵になることもある。しかし『羹に懲りて膾を吹く(あつものにこりてなますをふく)』ということわざがある。世の中には悪人ばかりがいるわけではない。平成15年の『犯罪白書』によると詐欺罪で検挙された人は9,500人余。日本の人口と比較すると1万人に1人以下である。検挙されるに至らない類似行為を含めても1,000人に1人以下であろう。一人の悪人に出会うことを恐れて、千人の友と出会う可能性を塞いでしまうのは愚かな人生である。
100人の友と出会うまで人間体験を積んでいけば、詐欺師の顔も見分けがつくようになり、少なくとも怪しい儲け話に乗らない程度には自分が鍛えられる。私が保証します。この話、信じますか?
2004.12.10.