NPO法人 ニュースタート事務局関西

「子育てにおける行動制限」高橋淳敏

By , 2020年10月17日 8:40 PM

 子どもは生まれてくる場所や親を選ぶことはできない。親によって子は産み出されるが、親にもどんな子がいいかとの選択もできなければ、子も産まれてくる場所も親も選ぶことはできない。それだけでも十分に神秘的なのではあるが、親にはそういう誕生の不思議にうかうかと感動してばかりではいられない。産まれてきた赤ん坊は自分で選んだわけでもないのに、産まれてきた所で生きようとして泣き喚き、生きる主体的な存在として現れる。その生命を守るため、子育ては始まる。食事を与え、住まいをつくり、心地のいい服を着せ、不快そうならば風呂に入れる。例外はあっても、そのほとんどは家の中にいて、親が行う。一般的には母親などが、赤ちゃんのそばいて、様子を見守ることがその役割となっている。別に母親でなくとも良いのではあるが、この役割に喜びを見出す人は多いだろう。その幸福は、創造者としてではなく、この生命を自分が守らなければならないといった従事者としての喜びでもある。赤ん坊を抱える幸せそうな母親の表情は、そのような心性において見出されるのだろう。

 赤ん坊の時期は、外出したり、他の人に抱っこしてもらったり、預けたりもする中でも過ぎていく。そのうち、保育所や友達なんかができて、子どもの世界は家の中から外へと大きく広がる。同時に自我のようなものからか欲望が言語にも現れてくる。好き嫌いが多くなったり、ヒーローの真似事をしたり、おままごとをしたり。好き嫌いを選択することや、敵味方や、もっと良い家に住みたいなどの欲望が出てくる。子どもの欲望は時には残酷で、食べ物を粗末にしたり、友達を傷つけたり、生き物を平気で殺したりする。そして、子どもが自分の足で走り回れるようになり、子どもの欲望の対象が広がれば、親による行動制限も始まる。衣食住含め、どんな子どもも自分の欲望通りにはいかない。「行動制限」とは、行動の自由を制限することであり、子がしていることや、やろうとしていることを叱ってやめさせたり、本人がしたくもないようなことをやらせたりするようなことである。家の中での行動制限もあれば、家にいなくてはならないという行動制限、食事は親と一緒のものか、あるいは親の経済力にもよって制限され、衣服や遊び内容、門限、人間関係に至るまで親の決めたことや生活状況に、反抗はできても、親を取り替えることもできなければ、その多くは従うことになる。

 そして、自我の拡大によって湧き出る子の欲望と、家庭生活やその子を守るためでもある親の行動制限が、家庭教育の機会となる。虐待などで子に当たる親はいるが、子を叱る親も減っているように思われる。外に見えなくなっただけなのかもしれないが。たぶん表向き叱るのではなく褒めて育てるような子育てが行われているのであろうが、子に対する行動制限は褒めることだけでは難しく、親の思い通りにならない子に対する虐待などが増えているのかもしれない。子が望むものを買い与えているだけでは、子の欲望に向き合う親の工夫もなく、家庭教育の機会もないだろう。さて、なぜ親が子に対して当たるのではなく叱ることができなくなり、躾のような言葉がなくなったのか。一つは子育てに母親以外の人が日常的に関わらなくなったことと、もう一つは自分の子さえ良ければ、お金さえあれば好きなものが買え生きていける、あるいはお金がなければ人としても扱われないという拝金主義的教育に陥っていることと予測はしているが、虐待までには及ばないものの、子育てにおける行動制限がどのようにしてあるのかを引きこもり問題に絡んで考えてみる。

 子がやっていることをやめさせる時、子がやりたくないことをやらせるとき、利口な(褒め言葉ではないが)親がやっている行動制限の多くは、子の欲望の規定ではないかと考えている。欲望の規定というのは、スヴォライジジェクという人の受け売りでもあるが、どういうことかというと、簡単なことで親の言うことを聞いたり、よい成績をとると褒美をあげるとか、そこまで露骨ではなくても、親の機嫌が良くなるとか。例えば、親が祖父母に会いに行かなくてはならない用があり、子どもは行きたくないこともある。このとき親と子の目的はわかりやすく対立している。子どもに留守番をさせたり、他の人に預けることもできないようなとき、親は子を連れて行かなくてはならない。そこで、ただ単に親は子を従わせるのではなくて、おばあちゃんはあなたに会いたがっているのよとか、おじいちゃんに会ったらお小遣いもらえるなどと言って、子どもの欲望を規定していき、子の行動をコントロールすることが多いだろう。子どもに行動制限をして従わせるだけの場合は、子が行くのを嫌がろうが祖父母を嫌おうがかまわないので、子どもの欲望は保持されたままである。しかし、会いたがっているおばあちゃんを好きになれない自分はおかしいのだとか、お金をもらえるのならばそれがやりたくないことでも行くべきことなのだとかといった子の欲望を規定することが行われているのだ。このように、祖父母に会いに行くことくらいなら些細なことなのかもしれないが、子育てや家庭教育はこの欲望の規定の積み重ねのようであり、子育てが他の人には晒されていないことにより、親による子の欲望や行動のコントロールがしやすくなっているかには見える。子の欲望が強制されていくので、大人になって好きなこととかやりたいことが、理由もなく分からなくなってしまう。このような子育てによる後遺症、子による反抗が引きこもり続けるという行為に繋がっているのではないか。学校教育に顕著なように、結局は大学に行き、少しでもいい企業に就職することこそが、子どもが欲するに値することなのだという大人による子に対する欲望の規定は、友達と遊びたいという子の欲望が、家庭や学校生活の中で人と競争することへと修正されていく。今後の社会においてもかなりの後遺症と、反発が表れることだろう。でもそれが悪いことであるはずはないのだ。

                                2020年10月17日 高橋淳敏

One Response to “「子育てにおける行動制限」高橋淳敏”

  1. Funabaka より:

    確かに親たちは受け継ぎながら、この欲望の規定を悪いことでないことを半ば信じている。受け継いだというバイアスを自分の立つ瀬として行動することに親としての、伴走者としての不足を意識しつつ、双方に何がしかの気付きと道筋がでることを想っている。

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